イスラーム その根本原理

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イスラーム その根本原理

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 イスラーム その根本原理

ムハンマド・ビン・アブドゥッラー・アッ=スハイム

監修

イスラーム宣教・教育委員会 翻訳出版部

イスラーム世界連盟

アル=マディーナ・アル=ムナッワラ

発行日

2013年12月

 慈悲ふかく慈愛あつきアッラーの御名において

著者まえがき

アッラーに全ての称賛あれ。私たちはかれを賛美し、かれの助けと赦しを乞い、罪深きわれらの魂と、私たちの過ちからの避難をかれに求める。アッラーが導きたもう者は迷うことなく、またアッラーが迷わせたもう者は誰にも導くことはできない。

私は、崇拝に値する主はアッラーの他に無いことを証言する。かれは配偶を持たない。また、私はムハンマドがかれのしもべであり、使徒であることを証言する。アッラーは人類に使徒を送りたもう。かれが使徒たちをおくりたもう後は、人々がかれについて嘆くことも無くなるだろうとの配慮である。またかれは、書物を、導き、慈悲、光、そして癒しとして啓示した。

過去には、使徒たちはとりわけ彼らの属する民族に向けて送られ、彼らの書物の護持を任じられた。彼らの書が忘れられ、彼らの法が変えられたのもそのためであり、特定の時代における特定の民族を対象としていたからである。

そののち、アッラーはかれの預言者ムハンマドを選び、彼を全ての預言者たち、使徒たちのうち最後の者としたもう。かれは言われる、

ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。(部族連合章33:40)

アッラーは、誉れ高きクルアーンという最高の啓示の書物をもって彼を嘉したもう。彼をして書物の護持者とし、彼以外のいかなる被創造物にも、その責務を負わせたもうことはなかった。かれは言われる、

本当にわれこそは、その訓戒(注:クルアーン)を下し、必ずそれを守護するのである。(アル・ヒジュル章 15:9)

かれはまた、ムハンマドの法を復活の日まで不変のものとしたもう。彼の法の永続には、それに対する信頼が不可欠であるとし、これに招き、これと共に忍耐せよと説きたもう。それゆえ、確かな知識を以てアッラーの道へと招くことが、預言者と彼に従う者たちの道なのである。このmanhaj(マンハジュ、明証)を明白にしつつ、アッラーは言われる、

言ってやるがいい。「これこそわたしの道。わたしも、わたしに従う者たちも明瞭な証拠の上に立って、アッラーに呼びかける。アッラーに讃えあれ。わたしたちは多神を信じる者ではない。」(ユースフ章 12:108)

アッラーは、アッラーのためであればどのような艱難辛苦であれ忍耐するよう預言者に命じ、こう言われる、

あなたは耐え忍ベ。(且つて)使徒たちが、不屈の決意をしたように耐え忍べ。(砂丘章 46:35)

かれはまた、ムスリムたちにも忍耐を命じたもう:

あなたがた信仰する者よ、耐え忍びなさい。忍耐に極めて強く、互いに堅固でありなさい。そしてアッラーを畏れなさい。そうすればあなたがたは成功するであろう。(イムラーン家章3:200)

この恵み深き神の道に従って、私は人々をアッラーの宗教へ招くために本書を執筆し、そのための導きについては、アッラーの書物とかれの使徒のスンナを参照した。本書において、私は万物の創造と人類の創造について、いかにして人類が使徒たちを遣わされるという温情を得たのかについて、また過去の諸宗教についても簡潔に記した。それを踏まえた上で、私はその意味と原則に従いイスラームへの導きを記した。それゆえ、導きを探し求める者は誰であれ、ここにその確証を見出すだろう。救済を探し求める者は誰であれ、ここに救済へと至る道が記されているのを見出すだろう。預言者たち、使徒たち、また正しき人々に従うことを欲する者は誰であれ、彼らに背を向けた者たちが迷いの道を進み、自らを損ねる間にも、ここに彼らの道を見出すだろう。

実際に各宗教の信者たちは、真理を有するのは自らの宗教のみと信じ、その他の者たちを自らの宗教へと招く。信者たちが、自らの宗教の指導者に対する称揚として、その他の者に呼びかけることもまた事実である。ムスリムについて言うならば、彼が人々に呼びかけるのは自らの主義主張に従わせるためではない。彼の宗教はアッラーの宗教である。かれはこの宗教に満足したもう。アッラーは言われる:

本当にアッラーの御許の教えは、イスラーム(主の意志に服従、帰依すること)である。(イムラーン家章 3:19)

また彼が人々に呼びかけるのは、人間を称賛の対象とさせるためでもない。何故ならアッラーの宗教においては、全人類が平等だからである。信仰心以外に、彼らを区別するものは何も無い。むしろムスリムであれば、彼らの主の道に従うよう、かれの使徒たちを信じるよう、かれがご自身の最後の使徒であるムハンマドに、全人類に伝えるよう命じたかれの法に従うように、と、人々に呼びかけるだろう。

私がこの書を執筆したのもそのためである。かれがそれと認めたもうアッラーの宗教、導きと幸福を探し求める者を導くよう遣わされた最後の使徒と共にあるこの宗教に、人々を招くためである。アッラーにかけて!この宗教なくしては、誰であれ真の幸福を得ることはできない。また(崇拝に値する)唯一の主はアッラーであり、ムハンマドはその使徒であり、アッラーの認めたもう唯一の宗教はイスラームであることを信じない限り、誰であれ心の平安を得ることはできないだろう。

イスラームを受け入れた無数の人々が、イスラームを受け入れる以前の彼らは本当の生を知らなかったと証言している。イスラームの庇護の下以外では、幸福を味わったことも全くなかった、とも。事実としてあらゆる人々が、幸福を、心の平安と真実を探し求めている。それらを得るための一助として、私は本書を用意した。アッラーが本書を浄めたまい、またよく受け入れたまいますように。また、これを以て正しき善行のひとつとし、現世においても来世においても、それを行う者に報いたまいますように。

翻訳に際し誠実であることと、また重複を避けるために私宛に翻訳物の複写を送付頂けることを条件に、本書をあらゆる言語に翻訳し、また公表することを許可する。

同様に、本書のアラビア語版もしくは翻訳版に何かしらの齟齬があった場合、末尾に記す住所へ私宛に送付頂ければ幸いである。

最初と最後において、外側と内側において、アッラーに全ての称賛あれ。現されたものも、隠されたものも、全ての称賛はアッラーの有である。始まりにおいても終わりにおいても、全ての称賛はアッラーの有である。天と地を満たせるほどに、あるいは我らの主が望みたもうままに、全ての称賛はアッラーの有である。我らが預言者ムハンマドに、彼の胞輩たちに、また精算の日まで彼の道に従う全ての人々に、アッラーの平安と祝福あれ。

著者

ムハンマド・ビン・アブドゥッラー・ビン・サーリフ・アッ=スハイム

Riyadh 13-10-1420

P. o. Box 261032 Riyadh 1342 and

P. o. Box 6249 Riyadh 11442

道はいずこに

人間が、成長して物事を理解し始めると、様々な疑問が心に生じてくる。私はどこから来たのか?私が死ぬとはどういうことか?私と、私を取り巻く世界を創ったのは誰か?誰がこの世界を所有し、管理しているのか?他にも、これと似た様々な疑問が思い浮かぶ。

しかしながらこうした疑問には、自分で解答を用意することはできない。こうした問題は宗教の領域に属しており、たとえ最新の科学であっても、解答を示すことはできないのである。こうした理由で、無数の言説や異なる迷信、物語が存在することとなるが、それらは人間の混乱と苦悩をいや増すばかりである。人間は、アッラーによって、こうした疑問とそれに類する問題への最終的な解答を示すに足る真の宗教に導かれることのない限り、満足な解答を得ることは不可能なのである。何故ならこれらの問題は神の秘密に含まれるものであり、適切かつ正確な解答を示せるのは、アッラーが預言者たち、使徒たちに啓示した真の宗教のみだからだ。ならば混乱と疑念を払しょくし、正しい道へ導かれるためにも、真の宗教について学び、これを信仰することこそが人間に課された義務と呼ぶにふさわしい。

以下、本書において私は読者をアッラーの正しい道へと導かれるよう招くものであり、また読者が慎重かつ忍耐強く熟考できるよう、若干の根拠と証明を示すものである。

 アッラーの存在とその(全ての被創造物に対する)主権、崇拝に値する神は唯一かれのみであることについて

多くの人々が、人工的な神を崇拝している。木や石、時には人間さえも。ユダヤ教徒たち、偶像崇拝者たちが、アッラーの使徒に彼の主の特徴について尋ねたのもそのためである。この質問に対して、アッラーは以下のごとく明らかにしたもう。

言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」(純正章 112:1-4)

かれはまたこうも言われる、

本当にあなたがたの主はアッラーであられる。かれは6日で天と地を創り、それから玉座に座しておられる。かれは昼の上に夜を覆わせ、夜に昼を慌ただしく相継がしめなされ、また太陽、月、群星を、命に服させられる。ああ、かれこそは創造し統御される御方ではないか。万有の主アッラーに祝福あれ。(高壁章 7:54)

かれはまたこうも言われる、

アッラーこそは、あなたがたには見える柱もなくて、諸天を掲げられた方である。それからかれは、(大権の)御座に鎮座なされ、太陽や月を従わせられる。(だから)各々の定められた時期まで運行する。かれが凡ての事物を規制統御し、種々の印を詳しく述べられる。必ずあなたがたに主との会見に就いて確信させるためである。かれこそは大地を広げ、その上に山々や河川を配置された方である。またかれはそこで、凡ての果実を2つ(雌雄)の対になされた。また夜でもって昼を覆わされる。本当にこの中には、反省する人びとへの印がある。アッラーは各々の女性が、妊娠するのを知っておられ、またその子宮の(胎児の時が)直ぐ終るか、また延びるかを知っておられる。凡てのことは、かれの御許で測られている。かれは幽玄界も現象界も知っておられる方、偉大にして至高の方であられる。(雷電章 13:2-3、8-9)

アッラーはまたこうも言われる、

言ってやるがいい。「天と地の主は誰であるのか。」言ってやるがいい。「アッラーであられる。」言ってやるがいい。「あなたがたはかれの外に、自分自身にさえ益も害ももたらせないものたちを保護者とするのか。」言ってやるがいい。「盲人と晴眼者は同じであるのか。また暗黒と光明とは同じであるのか。かれらはアッラーが創造されたような創られたものを、かれと同位に配する。それでかれらには創造の意味が疑わしくなったのか。」言ってやるがいい。「アッラーは凡てのものの創造者であり、かれは唯一にして全能であられる。」(雷電章 13:16)

かれの御しるしを以て人類のための確証と証明とを打ち立てつつ、かれは言われる、

夜と昼、また太陽と月は、かれの印の中である。それで太陽にも月にもサジダするようなことをしてはならない。それら(両方)を創られた、アッラーにサジダしなさい。あなたがたが仕えるのなら、かれにこそ仕えなさい。もしもかれら(不信心者)が高慢で(主に仕えることを侮って)も、主の御許にいる者たちは、夜も昼もかれを讃え、弛むことをしらない。かれの印の一つを、あなたは荒れ果てた大地に見る。われがその上に雨を降らせると、動きだし、盛り上がる。本当にそれに生命を与えられた方は、まさに死者を甦らせられる方である。かれは、凡ゆることに全能である。(フッスィラ章 41:37-39)

かれはまたこうも言われる、

またかれが、諸天と大地を創造なされ、あなたがたの言語と、肌色を様々異なったものとされているのは、かれの印の一つである。本当にその中には、知識ある者への印がある。またかれが、あなたがたを夜も昼も眠れるようにし、またかれに恩恵を求めることが出来るのも、かれの印の一つである。本当にその中には、聞く者への印がある。・・・(ビザンチン章 30:22-23)

かれの属性である美と完成とを通じてかれご自身について解き明かしつつ、かれは言われる、

アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、この2つを守って、疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。(雌牛章 2:255)

かれはまたこうも言われる、

罪を赦し、悔悟を受け入れ、懲罰には厳しい方で、惜みなく与える主であられる。かれの外に神はなく、誰でも行き着くところはかれの御許である。(ガーフィル章 40:3)

かれ — いと高き主に称賛あれ — はまたこうも言われる、

かれこそは、アッラーであられる。かれの外に神はないのである。至高の王者、神聖にして平安の源であり、信仰を管理し、安全を守護なされ、偉力ならびなく全能で、限りなく尊い方であられる。アッラーに讃えあれ。(かれは)人が配するものの上に(高くおられる)。(集合章 59:23)

全知かつ全能の主は、かれのしもべたちにご自身を知らしめ、かれらのためにその御しるしと確証を打ち立て、完全なる属性を以てご自身について解き明かす預言を下したもう。これを前に人間の知恵と性質は、かれの主権と、崇拝に値するのは唯一かれのみであることを証言するのである。かれの存在と主権に関して、以下に — 神が望みたもうならば — その詳細を記す。

 

 1:世界の創造と、その素晴らしき設計について

おお、人々よ!宇宙の全てが、あなた方を取り巻いている。空、星々、銀河、そして様々な種類の植物が互いに肩を並べ合って育ち、全てが実を結ぶこの地球・・・。そこでは、全ての生物が対となっているのが見てとれることだろう。宇宙が自らを造り出したのではない。また、決して造ることも出来なかっただろう。ならば造り手が存在するはずである。では、その造り手とは誰か。かくも素晴らしく設計し、完成させ、これを以てアッラーこそは唯一の御方であり、制御の主たるかれの他に崇拝すべき主も神も無いことを看破する者たちのための御しるしとされたのは誰か。かれは言われる、

かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか。それともかれらが、天と地を創造したのか。いや、かれらにはしっかりした信仰がないのである。 (山章 52:35-36)

これら二つの句には、三つの問いが含まれている。

1- 彼らは、無から生じたのだろうか?

2- 彼らが、彼ら自身を造ったのだろうか?

3- 彼らが、天と地を造ったのだろうか?

これらの創造が偶然ではなく、また自らを造ったのでもなければ、天や地を造ったのでもないのなら、天と地同様に彼らを造った造り手が存在すると断言されるべきであろう。その造り手こそはアッラー、唯一の支配者である。

 

 2: 自然

全ての被創造物には、その創造者を信じる傾向が自ずと備わっている。万物において、かれが最も偉大かつ優れていることを証言するためである。この傾向は、初等科で教わる算数などよりもよほど深く自然として根差しており、認めるべきものを認めずに切り捨てるといった特異な性質を持ち合わせる者でも無い限り、何かしらの証拠を以て証明する必要も無い(Majmoo ‘Fatawa Ibn Taymiyah, 1:47-49参照)。アッラーは言われる、

それであなたはあなたの顔を純正な教えに、確り向けなさい。アッラーが人間に定められた天性に基づいて。アッラーの創造に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人びとの多くは分らない。(ビザンチン章 30:30)

アッラーの使徒はこう語っている:「すべての子供はイスラームの唯一神信仰 を指向する性質を持って生まれる。彼をユダヤ教徒、キリスト教徒やマギ教徒(注:マギ教徒とは、炎その他の自然物質を崇拝する者たちである)にするのは彼の両親なのである。それはあたかも動物が仔を産み、群れから離れずにいるようなものである。」すると(このハディースの語り手である)アブー・フライラが言った、「(アッラーの御言葉を)お聞かせ下さい。」 それであなたはあなたの顔を純正な教えに、確り向けなさい。アッラーが人間に定められた天性に基づいて。アッラーの創造に、変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人びとの多くは分らない。(ビザンチン章 30:30) (ブハーリーおよびムスリムによる伝承)

彼はまたこうも語っている: 「本当に、私の主はあなた方の知らないことを私に教え、それをあなた方にも教えるよう私に命じたもう。 『われがわがしもべに与えた金銭は(彼にとり)すべて合法である。われはわがしもべの天性を、イスラームの唯一神信仰に傾くよう創った。だが彼らの許へ悪魔がやって来て彼らの宗教から引き離し、われが合法と定めて彼らに与えたものを禁じ、われがいかなる確証も授けていないものをわれに配して崇拝するように仕向けた。』(アフマドおよびムスリムによる伝承)

 

 3: 万人の総意

 過去もしくは近代における全ての共同体が、満場一致でこの宇宙には創造者すなわちアッラー、万有の主が存在するとしている。かれは諸天と大地の創造主であり、被創造物のうちかれに比肩する者はなく、主権において同等の者もない。過去のいかなる共同体においても、アッラーが天と地とを創造する際に、彼らの信奉する擬神が役割を担ったとする信条が存在したとする報告は皆無である。むしろ彼らは皆、アッラーが彼らと彼らの神々を創造し、かれの他にはいかなる創造者も養生者もなく、益するも害するもその力を持つのは唯一かれのみであると信じていたのである(Majmoo ‘Fatawa 14:380-383参照)。偶像崇拝者たちがかれの主権と守護を認めていることについて、アッラーは以下の章句をもって告げたもう、

もしあなたがかれらに、「誰が天と地を創造し、太陽と月を服従させるか。」と問うならば、かれらは必ず「アッラー。」と言うであろう。それならどうしてかれらは迷い去るのか。アッラーは、御自分のしもべの中、御好みの者には糧を豊かに与え、また(そう望まれる)者には切り詰められる。本当にアッラーは、凡てのことを熟知なされる。もしあなたが、かれらに「誰が天から雨を降らせ、それで、死んでいる大地を甦らせるのか。」と、問うならば、かれらはきっと「アッラー。」と言うであろう。言え、「アッラーを讃えます」。だがかれらの多くは理解しない。(蜘蛛章 29:61-63)

もしあなたがかれらに向かって、「天と地を創造したのは誰ですか。」と問えば、かれらは必ず、「偉力ならびなく全知な御方が創造なされたのです。」と言う。(金の装飾章 43:9)

 

 4: 理性

人間の理性は、この宇宙に偉大なる創造主がいることを必然として認識する。堅実な理性であれば、この宇宙が自然発生的に生じたものではないこと、従ってそこには然るべく創始者が存在するということを肯定する。また人間は、自分が危機や苦悩に陥ればそれを察知する。そしてそれらを防いだり取り除いたりすることが出来ないときには、たとえ普段は自らの主を斥け、偶像を崇拝する者であったとしても、その心は天を仰ぎ、主たるかれの加護と、苦難からの救済を求めるのである。これは否定し得ぬ事実である。困難に陥れば動物でさえこうべをもたげて空を仰ぎ見る。全能なるアッラーは、われわれ人間に対し、危害に悩まされる際には、危害が取り除かれるよう急いで主に願うよう知らせている。かれは言われる、

人間は災厄に会えば主に祈り、悔悟してかれに返る。だが、恩恵がかれの御許から授けられると、先に祈ったことを忘れて、アッラーに同位者を配し、・・・(集団章 39:8)

かれはまた、偶像崇拝者たちについてこう言われる、

かれこそはあなたがたを陸に、また海に旅をさせられる御方である。それであなたがたが船に乗る時、それが順風に乗って航行すれば、かれらはそれで喜ぶ。暴風が襲うと、大波が四方から押し寄せ、かれらはもうこれまでだと観念して、アッラーに向かって、信心を尽くして祈る。「あなたが、もしわたしたちをこれから救い下されば、必ず感謝を捧げる者になります。」だがかれが救助してみると、見よ、かれらは地上において正義を侮って不義を行う。人びとよ、あなたがたの反逆は只自分自身の魂を害し、現世の生活で享楽を得るだけであるが、あなたがたはすぐにわれに帰るのである。その時われは、あなたがたの行ったことを告げ知らせるであろう。(ユーヌス章 10:22-23)

かれはまたこうも言われる、

大波が天蓋のようにかれらを覆う時は、アッラーに祈り、誠を尽くしてかれに傾倒しなさい。だが、かれらを無事陸地に着かせると、かれらの中の或る者は、(善と悪の中間の)あやふやな状態になる。だが二心ある者、不信心な者の外は、誰もわれの印を否定しない。(ルクマーン章 31:32)

主はこの宇宙を存在せしめ、人間をあるべき最良の姿に造りたもう。その性質はかれに隷属し服従するものとし、その理性はかれの主権に向かい、唯一かれのみを崇拝するものとしたもう。全人類が満場一致でその加護を証言する者、それがアッラーなのである・・・その権能において、かれが崇拝に値する然るべき唯一の者であることは必然なのである。これについては多くの証拠が存在する(注:更なる確証については、Muhammad Ibn Abdul Wahhaab著”Kitaabut-Twheed”参照)。そのうち、いくつかを以下に示す。

1- この宇宙にのみ、創造者でありかつ養生者である唯一の神が存在する。かれの他に、害または益をもたらす者は皆無である。かれの他には、自ら何ごとかを為し、創造し、命ずるようないかなる神も存在しない。共に創造したり、分担し合ったりするような複数の神も存在しない。仮にそうであったなら彼らの中でもより優れた誰かがその他を鎮圧していたに違いないであろう。だとすれば、鎮圧された者たちは神であったとは言い難く、鎮圧した者こそが真の神である。崇拝されるべき唯一の者として、その庇護と主権において並ぶ者無き者は、同様に捧げられた崇拝を他の誰かと分かち合うことも無い。アッラーは言われる、

アッラーは子をもうけられない。またかれと一緒の外の神もない。そうであったら、それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う。アッラーに讃えあれ。(かれは)かれらの配するものを(超越される) (信者たち章 23:91)

2- 天と地を創造したもうアッラーの他に、崇拝に値するものは皆無である。人間は、自分に益をもたらし、危害や災厄、破滅から保護してくれる主の好意を得ようと探し求めるが、そうした全てを可能にするのは諸天と地を有する唯一の者のみである。真実の探求者たちは、以下を熟読すべきであろう:言ってやるがいい。「アッラーを差し置いてあなたがたが(神であると)主張していたものたちに祈るがよい。そんな神々は、天においても地においても微塵の力もない。またその(創造)に当っては、何ら役割を持たず、アッラーにしてもそんな助力者を必要とはしていない。」かれが御許しになられた者の外、御前での執り成しは無益である。やがてかれらの心の怖れが消えると天使たちは言う。「あなたがたの主は、何と仰せられたのですか。」するとかれらは(答えて)、「真理でした。かれは、至高にして至大の御方です。」という。(サバア章  34:22-23)

これらの句、またその他の句は、以下の4点を以てアッラー以外に対する心の執着を断ち切るものである。

1:多神崇拝者たちが崇拝するものは、アッラーの所有のうち原子の一粒の重ささえも所有せず、また原子の一粒の重ささえも所有しないものには益または害をもたらすことは出来ない。従って、それらは崇拝するに値せず、またアッラーと居並ぶ者としてみなされるものでもない。彼らを有するのはアッラーであり、彼らを操るのもアッラーである。

2:諸天と地において、彼らが何ひとつ所有しない以上、彼らには原子の一粒の重ささえも割り当てられることはない。

3:アッラーは、かれの被創造物の中に援助者を持たない。むしろ益をもたらし、害を去らせることで彼らを援助するのはかれなのである。かれは全く彼らを必要としておらず、彼らこそ、絶対的にかれを必要としているのである。

4:こうしたいわゆる「同輩者」と呼ばれる者たちには、彼らの支持者たちをアッラーに執り成すことは出来ず、またそうした許可を与えられてさえいない。アッラーは、その友以外には執り成しを許さず、またかれの友であっても、アッラーがその言動と信仰に満足したもう者の他は執り成すことは出来ない(注:Qurratu ‘uyoonil-muwahhideen p.100参照)。

3- この宇宙における秩序正しい采配と正確な遂行こそは、それを管理するのが唯一の主であり王であり、かれをおいて他に創造者も無いことの最たる徴候である。この宇宙にふたりの創造者は存在し得ず、故にふたりの主を有することもあり得ない。アッラーは言われる、

もし、その(天地の)間にアッラー以外の神々があったならば、それらはきっと混乱したであろう。(預言者章 21:22)

仮に天地においてアッラーの他に神が存在するとしたならば、それらは破滅に陥るだろう。何故ならアッラーの他に神が存在するなら、いずれもが権威を示し、自由に裁定する権利を有さないはずがないからである。それは議論を呼び起こし、闘争となり、結果として天地は廃墟と化すだろう。ひとつの体をふたつの魂によって管理することは出来ない。そのようなことが起きれば、体は壊れてしまうだろう — だとすればより巨大なこの宇宙に、どうしてふたりの支配者が存在するはずだなどと想像し得るだろうか。

4- 預言者たち、使徒たちの総意:預言者たち、使徒たちが最も聡明かつ最も知的であり、道徳において最も優れ、最も誠実であり、アッラーの望まれるところを最も良く知り、また人々の中で最も正しく導かれている点については、全人類が同意している。何故ならアッラーから啓示を授かり、それを人々に伝えたのも彼らだからである。また全ての預言者たち、使徒たち — 最初のアダム、そして最後の預言者ムハンマドに至るまで、彼ら全ての上に平安あれ — は、皆アッラーを信じるよう、またかれのみが真の主である以上、何であれかれ以外を崇拝することを控えるように彼らの民に呼びかけた。アッラーは言われる、

あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。(預言者章21:25)

かれはまた、ヌーフ — 彼の上に平安あれ — が、彼の民に呼びかけたことについてもこう言われる、

「あなたがたはアッラーの外に仕えてはならない。わたしはあなたがたのために、苦難の日の懲罰を本当に恐れる。」(フード章 11:26)

かれ — 主に称賛あれ — はまた、全預言者のうち最後の者ムハンマドについてもこう言われる:

言ってやるがいい。「わたしに啓示されたのは、あなたがたの神は唯一の神であると言うことである。ところであなたがたは、帰依しているのか。」(預言者章 21:108)

この神は、無から宇宙を素晴らしく創造したもう者なのである。かれは人間を最良の姿に創りたもう。そしてその性質に、主権を有するはかれであり、崇拝されるべきは唯一かれのみであることを刻印することで創造を完成させたもう。かれに服従し、かれの道を歩むことにより心の平安を得るようにあらしめ、自らの創造者に降伏し、絶え間なくかれとのふれあいを求めるようにならない限り、魂がさまよい続けるようにあらしめたもう。かれはまた、尊敬すべき預言者たちが伝えた真正なる道を通ることなしには、かれとふれあうことが出来ないようにあらしめたもう。かれは人間に、アッラー — かれに称賛あれ — を信じることによってのみ正しく働く知性を与えたもう。

高潔な性質、やすらかな魂、そして信じる心を持つ者は、現世と来世における幸福と平安、平和を得る。しかしそれらの全てを拒否する者は、混乱した現世の迷路に生きることとなる。複数の神々によって分裂し、そのうち誰が益をもたらしてくれるのか、あるいは誰が害から守ってくれるのかも定かではない。心に真の信仰がもたらされるよう、また不信仰の醜悪さが明らかになるようにとの、これはアッラーによる比喩なのである — 何故なら比喩は、意味をより理解しやすくするからである。多数の神々の間で分裂する者と、自分の主のみを崇拝する者について、かれは比喩を造りたもう。かれ — かれに称賛あれ — は言われる、

アッラーは一つの比喩を提示なされる。多くの主人がいて互いに争う者と、只一人の主人に忠実に仕えている者とこの2人は比べてみて同じであろうか。アッラーに讃えあれ。だが、かれらの多くは分らないのである。(集団章 39:29)

アッラーは、多神を奉ずるしもべを、彼を巡って互いに相争う複数の主人に所有された奴隷に喩える。彼は彼らの間で引き裂かれ、皆がそれぞれ彼に命令を下し、責任を果たすよう彼に求める。彼らの間で彼は混乱し、常に不安定な状態に置かれる。互いに異なり矛盾し合う欲求を満たすことは不可能である。彼の労力や向かうべき道はばらばらに引き裂かれてしまう。

かれはまた、唯一の神を奉ずるしもべを、たった一人の主人に仕える奴隷に喩える。彼は自分の主人が何を必要とし、何を命じているのかを知っている。そのため、彼は快適かつ安全な道を歩むことになる。これら二人の奴隷が、同等であるとは言い難い。何故なら一人は唯一の主人に仕え、公正さや知識、また確実性のもたらす喜びを享受し、もう一人は別々の異なった不満を唱える主人たちに仕え、それゆえに罰され、苦しめられているのだ。彼は不確実な状態にあり、彼ら全員のうちたった一人でさえも満足させることが出来ずにいる。

アッラーの存在の確証と、かれの主権ならびにかれのみが崇拝に値することが明白となった以上、私たちは自らが、かれによる宇宙と人という被創造物の一部であることを熟知し、またその背後にあるかれの知恵について知らねばならない。

 万物の創造

諸天と大地、星々、銀河、海、木々とあらゆる生物を有するこの宇宙は、称賛の主、栄光の御方であるアッラーにより無から創造された。かれは言われる、

言ってやるがいい。「あなたがたは、2日間で大地を創られたかれを、どうして信じないのか。しかもかれに同位者を立てるのか。かれこそは、万有の主であられる。かれは、そこに(山々を)どっしりと置いて大地を祝福なされ、更に4日間で、その中の凡ての(御恵みを)求めるもの(の必要)に応じて、御恵みを規定なされた。それからまだ煙(のよう)であった天に転じられた。そして天と地に向かって、『両者は、好むと好まざるとに関わらず、われに来たれ。』と仰せられた。天地は(答えて)、『わたしたちは喜んで参上します。』と申し上げた。そこでかれは、2日の間に7層の天を完成なされた。そしてそれぞれの天に命令を下し、(大地に)近い天を、われは照明で飾り、守護した。これは、偉力ならびなく全知なる御方の摂理である。」(フッスィラ章 41:9-12)

かれはまたこうも言われる、

信仰しない者たちは分らないのか。天と地は、一緒に合わさっていたが、われはそれを分けた。そして水から一切の生きものを創ったのである。かれらはそれでも信仰しないのか。われはまた、大地に山々を据えてかれら不信心者にとっても大地を揺るぎないものとした。またそこに、往来のための広い道を創った。それでかれらは必ず利するところがあろう。更にわれは、天を屋根とし守護した。それでもかれらは、これらの印から背き去る。(預言者章 21:30-32)

アッラーは、万物を数多くの偉大なる目的のために創造したもう。そのあらゆる部分に偉大なる知恵と輝けるしるしが込められている。そうしたしるしのうち、ひとつでも熟考すれば、驚嘆することだろう。植物におけるアッラーによる創造の素晴らしさを見よ。葉、茎、そして果実といったほぼ全てが、人間の知性ではその詳細を網羅しきれないほどの益に満ちている。柔らかくほっそりとした茎にあって、水分を運ぶ維管束を見よ。注意深く観察しない限り、肉眼で捉えるのは難しいだろう。それらがいかにして地下から地上へと水分を吸い上げることか。また水分が、いかにして通り道に従い、許容量に応じて吸い上げられてゆくことか。その後、それは人間の目では知覚できない細胞へと浸透してゆくのである。そしてまた、木になる果実を見よ。それらがいかにしてある段階から別の段階へと移行することか。それはあたかも、誰もが指一本触れられぬままに成長する胎児の状態のごとくである。覆うものもなく、素裸で育ちゆく木を見よ。その後、主たる創造者は葉を用い、最も美しい方法でこれを覆いたもう。それからは、暑さや寒さ、その他の害をなす諸々からか弱い果実を保護するために、まるで衣のように葉で覆った状態を維持したもう。その後で、優しく穏やかに果実を連れ出したもう。それからかれは、幼子が母の乳によって滋養を得るのと同じように、果実に、茎と水の通り道を介して糧を与えたもう。それから完全に熟すまで、かれは果実を育てたもう。そのようにして、生を持たぬ木のかけらから、かれは美味なる果実をもたらすのである。

地球を、またそれがどのように創造されているかを観察すれば、それが創造主の最も偉大なる御しるしであることを知るだろう。アッラーはそれを休息の場所として、また寝台として造り、それからかれのしもべたちをそこへ配したもう。彼らの糧や滋養、生計の源と造り、また彼らが必要に応じて出かけて行けるよう道や小径を配したもう。山々を堅固に据えて柱とし、それをもって震動から保護したもう。かれはそれを平らかにし、引き伸ばし、広げ、その表面に生ける者たちを集めて彼らの生前の器とし、またその中に死せる者たちを集めて彼らの死後の器としたもう。表面は生ける者の住処であり、その中は死せる者の住処である。

それから太陽、月、星々と星座宮を回転させる軌道を見よ。それが時の終わりまで規則正しく順当に、この惑星を中心に休みなく回転するのを、またその素晴らしき連動の結果として夜と昼が、季節が、暑さと寒さが入れ替わるのを見よ。またそれがあらゆる動植物と、地球に存在する全てのものに益を与えるのを見よ。

それから空の創造について思い起こし、更にもう一歩深く観察してその高さ、その広さ、またそれがいかに安定しているかを見れば、それがアッラーの最も偉大なる御しるしのひとつであることが理解できよう。その下には支えるためのいかなる柱もなく、その上にはいかなる吊り糸もなく、ただアッラーの無限の御力の他に天地を支えるものは何もない。

更にこの宇宙を、その部分同士が最高の方法で組み合わされたその構築を見よ — それは創造主の全能と全知、知恵と雅量を示している。それはあらゆる道具と部材をもって建設された建築物のようだということが理解できよう。天はその屋根として高く掲げられ、地には住人たちの休息の場として絨毯が敷かれる。太陽と月のランプが地球を照らし、飾られたランタンの星々が宇宙の通り道から旅人たちに方角を知らせる。地中には宝石と金属が隠されており、まるで準備しておいた宝物のように最もふさわしい目的に使われるのを待っている。あらゆる種類の植物や動物も、それにふさわしい用途のために準備されている。ある種の動物は乗りものに、またある種は乳を得るために、またある種は食用にふさわしく、またある種は警護に用いるのがふさわしい。その上でかれは人間を彼らの管理者として、また上に立つ王者としたもう。

あらゆる角度と各々の部分からこの宇宙を考えれば、そこには多くの驚きが見出されよう。もしも深く熟考し、自分自身に対して誠実になり、気まぐれやでき心、盲信の引き綱から自らを解放したならばこの宇宙は、最高の方法で計測し、最高の形式に配列したもう全知者、権能者、全能者たる創造者によって創られたのだと確信をもって知ることだろう。同時に創造者が二人存在することはあり得ないということも、確信をもって知ることだろう。かれはただ唯一の並ぶ者もなき主である。もしも天地に崇拝に値する神が、かれの他にも存在したならば、それらは腐敗しその命令も分裂し、その慈悲も破壊されることだろう。

しかし、もしも創造を創造主以外によるものとする考えが改まることがないならば、それは川のそばの水車が、川を中心とした完璧で素晴らしい計測のもとに構成されたメカニズムによって回転していることを考慮せず、全体として観測することなくただ眺めているだけということになる。その川は、その水を得て異なる種類の果物が育つ長い庭の中心を流れている。そしてその庭の世話人が別々の部分をひとつにまとめ、それらが失われることのないように、果実が腐ることのないように完璧に管理する。この世話人は、それからひとつずつの部分を人間の必要に応じて各々ひとまとめにし、各々に値するものを与え、その後もそのやり方を繰り返し続ける。

それでもなおこれらの全てが、選択の自由を持つ計画者たる創造者のいかなる手も借りずに起きたと言えるだろうか?こうしたメカニズム、こうした庭の存在が、いかなる創造者や計画者もなく単なる偶然であると言えるだろうか?どのような理性をもってすれば、これらが全て偶然だなどと言えるのか、想像がつくだろうか?そのような理性がどのような助言が成し得るか、想像がつくだろうか?(注: 本段落に限り“Miftaahu daaris-sa 'aadat” p 251-269からの引用)

根底にある理由:

宇宙の創造に関するこうした熟考を踏まえた上で、次に言及すべきはアッラーがこの大いなる存在と驚くべき御しるしを生起させたもう理由についてであろう。

1. それらは人間に仕えるよう用意された。アッラーが地上に、かれを崇拝する継承者を創ることを決めたもうとき、かれは人のために、それらを生活に取り入れ上質な人生を送るよう、また彼の終の住処が整うようにとあらゆるものを創りたもう。アッラーは言われる、

またかれは、天にあり地にある凡のものを、(賜物として)あなたがたの用に服させられる。本当にこの中には、反省する者への印がある。(跪く時章 45:13)

かれはまたこうも言われる、

アッラーこそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせられ、あなたがたのために御恵みになられる方である。また船をあなたがたに操縦させ、かれの命令によって海上を航行させられる。また川をあなたがたの用に服させられる。またかれは、太陽と月をあなたがたに役立たせ、両者は飽きることなく(軌道)を廻り、また夜と昼をあなたがたの用に役立たせられる。またかれはあなたがたが求める、凡てのものを授けられる。仮令アッラーの恩恵を数えあげても、あなたがたはそれを数えられないであろう。人間は、本当に不義であり、忘恩の徒である。(イブラーヒーム章 14:32-34)

2.  天地と、宇宙に存在するあらゆるものの創造こそはアッラーの主権の証拠であり、かれの唯一性の御しるしである。そしてこの人生において最も尊ぶべきことは、アッラーの主権とかれの唯一性を肯定することである。アッラーがこれらを偉大なる証拠と御しるしとして確立し、最も納得のいく確証となされた事実こそが最も重要な問題なのである。アッラーは諸天と大地、またその他あらゆる存在を、それらをもって証拠とするために創造したもう。以下の章句のように「かれの印」といった宣言が数多くなされるのもそのためである。

またかれが、諸天と大地を創造なされたのは、かれの印の一つである。

またかれが、あなたがたを夜も昼も眠れるようにしたのは、かれの印の一つである。

またかれが、恐れと希望の稲光をあなたがたに示すのは、かれの印の一つである。

またかれが、御意志によって、天と地を打ち建てられたのは、かれの印の一つである。(ビザンチン章 30:22-25)

3. それらをもって復活の日の存在を確証するためである。生には二種類あり、ひとつは現世における生、そしてもうひとつは来世における生である。そして来世における生こそが真実の生である。アッラーは言われる、

現世の生活は、遊びや戯れに過ぎない。だが来世こそは、真実の生活である。もしかれらに分っていたならば。(蜘蛛章 29:64)

来世こそは報奨と勘定の住処である。そこにはふさわしい者に永遠の幸福が、またふさわしい者に永遠の苦悩がそれぞれ用意されている。死後の復活を経ることによってのみ、人間はその住処に辿り着けるのである。主との関わりが断たれている者たちはその存在を否定する。彼らは性質において堕落し、理性の感覚が損なわれた者たちである。アッラーが証明と証拠を確立されたのは、それにより魂が信じ、心が確信するだろうとの理由による。繰り返し魂を創造することの方が新たに創造するよりもはるかにたやすく、繰り返し人間を創造することの方が天地の創造よりもはるかにたやすいのである。アッラーは言われる、

かれこそは先ず創造を始め、それからそれを繰り返される御方。それは、かれにおいてはとてもた易いことである。(ビザンチン章 30:27)

かれはまたこうも言われる、

天と地の創造は、人間の創造などよりも偉大である。だが人びとの多くはそれを理解しようとはしない。(ガーフィル章 40:57)

かれはまたこうも言われる、

アッラーこそは、あなたがたには見える柱もなくて、諸天を掲げられた方である。それからかれは、(大権の)御座に鎮座なされ、太陽や月を従わせられる。 (だから)各々の定められた時期まで運行する。かれが凡ての事物を規制統御し、種々の印を詳しく述べられる。必ずあなたがたに主との会見に就いて確信させるためである。(雷電章 13:2)

おお、人間よ!このように宇宙の全てがあなたのために用意され、またその御しるしと証拠が示された以上、居並ぶ者なきアッラーをおいて他に崇拝に値する者は何もないことを、あなたは証言することだろう。あなたの復活と死後の生の方が天地の創造よりも容易であることを知った以上、あなたは主に出会うことだろう。全宇宙の崇拝と被創造物の賛美を受け入れたもうアッラーに、あなたの行いについて召喚を受けることだろう。

天にあり地にある凡てのものは、アッラーを讃える。(かれは)至高の王者、神聖にして偉力ならびなく英明であられる。(合同礼拝章、62:1)

万物はかれの威光にひれ伏す。かれがこう言われる通りである、

あなたは見ないのか、天にある凡てのものが、アッラーに、平伏するのを。また地にある凡てのものも、太陽も月も、群星も山々も、木々も獣類も、また人間 の多くの者が平伏するのを見ないのか。だが多くは懲罰を受けるのが当然な者たちである。またアッラーが見下げられた者を、誰も尊敬することは出来ない。 本当にアッラーは御望みのことを行われる。(巡礼者章 22:18)

こうした存在でさえ、それぞれに見合った方法で彼らの主に崇拝を捧げていることについて、アッラーは以下の章句において説きたもう、

あなたは、天地の間の凡てのものが、アッラーを讃えるのを見ないのか。羽を拡げて飛ぶ鳥もそうである。皆それぞれ礼拝と唱念を心得ている。アッラーはかれらの行っていることを知っておられる。(御光章、24:41)

もし全身が、実のところはアッラーの命令と規則に従って活動しているとしたら?心臓、肺、肝臓、その他あらゆる器官がその主に服従しているとしたら・・・それでも主に対する信仰と不信仰の間に留まる余地があるだろうか。あなたの体に背いてさえも、あなたを取り囲む世界において祝福されたこの道を逸れることを選ぶだろうか?

完全に正気の者ならば、この大いなる宇宙の反感を買ってその広さゆえに迷うくらいなら、実際にはそれよりもはるかに良いものを選び取るだろう。

 人間の創造と称揚

アッラーは、この宇宙に住むに値する被創造物の創造を決めたまい、そのためにかれは人間を選びたもう。人間を土で造るという点についても、それはかれの神聖なる知恵によるものであった。かれはまず土より創造し、それから現在のそれと同じく美しい姿に整えた。そのようにして彼が申し分なく完成したとき、かれの精霊(天使ジブリール -ガブリエル)を通じて、彼の中に生命の息を吹き込んだ。こうして、かれが人間を最高の姿に創造したもう。聞くことや見ること、動き、話すことが出来るようにと能力を与えたもう。それから彼の主は、彼を楽園に住まわせ、彼が知るべきこと全てを教えたもう。彼に対しては楽園の全てを合法とし、その上で、彼を試みるために一本の木を禁じたもう。

アッラーは、人間の身分と地位を示すことを望まれ、彼に跪拝するようかれの天使たちに命じたもう。天使たちは皆跪拝したが、悪魔は傲慢にもこれを頑なに拒否した。アッラーは彼の不服従をお怒りになり、彼の傲慢さゆえに、かれの慈悲から追放したもう。悪魔はアッラーに命乞いし、復活の日までの猶予を求めた。そこでアッラーは、彼を復活の日まで猶予したもう。

悪魔は、アダムを嫉妬した。彼の子孫らが優遇されたためである。彼は彼の主にかけて、自分は前からも後ろからも、左からも右からも近づき、全てのアダムの子孫を道に迷わせるであろうと断言した。ただしアッラーの、誠実かつ敬虔で、正直なしもべは例外である。何故なら彼らは、アッラーにより悪魔の邪悪な計画から守護されているからである。アッラーは、悪魔の邪悪な計画についてアダムに警告したもう。しかし悪魔はアダムと、その妻ハッワを誘惑した。彼らを楽園から連れ出し、彼らには隠されていた陰部をあらわにするためである。彼はアッラーにかけて誓ってみせた。そして自分が彼らにとって誠実な同志であり、アッラーはかの木を彼らに対して禁じてはおらず、それが彼らを天使か、もしくは不死の者にするだろうと語った。

悪魔の欺瞞に感化されたアダムとハッワは、禁じられた木から食べた。アッラーの命令に背いたがゆえの最初の罰、彼らから隠されていた恥部が露わになってしまったことに彼らは苦悩した。アッラーは、かれの警告と悪魔の姦計について彼らに思い起こさせたもう。

それでアダムは、彼の主の赦しを請うた。アッラーは彼を赦したまい、彼の悔悟を受け入れ、彼を選び導きたもう。それから、かれは彼が住まう楽園から立ち去るよう命じ、しばらくの間、彼の住処であり喜びである地上へ行くよう命じたもう。かれはまた、彼が土から造られたこと、彼が地上に生きて死に、やがて復活させられるであろうことを彼に告げたもう。

そのようにしてアダムと、その妻ハッワは地上に降り立ち子孫を生んだ。彼らは預言者アダムを父に持つ者であり、皆が皆アッラーを崇拝した。この物語について、アッラーは栄光のクルアーンにおいてこう言われる、

われはあなたがたを創り、形を授け、それからわれは、天使たちに向かって、「アーダムにサジダしなさい。」と告げた。それで外のものは皆サジダしたが、悪魔(イブリース)はサジダした者の中に加わらなかった。かれは仰せられた。「われがあなたに命じた時、どうしてサジダしなかったのか。」悪魔は答えた。「わたしはかれよりも優れております。あなたはわたしを火から御創りになりましたが、かれを泥で創られました。」かれは仰せられた。「ここから落ちてしまえ。あなたはここで高慢であるべきではない。立ち去れ。あなたは本当に卑しむべき者である。」悪魔は答えた。「かれらが甦らされる日まで、わたしを猶予して下さい。」かれは、「あなたは猶予されよう。」と仰せられた。・・・(高壁章 7:11-15)

人間における、アッラーの偉大なる御わざを熟考せよ。かれは彼を最高の姿に造り、知性や知識、雄弁さ、話の仕方、美しい容姿と節度ある肉体、類推によって解答を演繹し、考えることによって知識もしくは徳高き性質を得る能力や、正義と従順さ、アッラーへの服従など、名誉のしるしを持つ衣を着せたもう。母の胎内にとどめ置かれた一滴の精子に始まり、天使によって楽園に迎え入れられるとは、何という隔たりがあることか。 ああ、何と素晴しいアッラー、最も優れた創造者であられる。(信者たち章 23:14)

現世はひとつの村であり、人間はその住民である。全ては彼のために用意され、全ては彼の役に立ち、彼に益をもたらすよう造られている。その他全ての被創造物は彼に奉仕し、また彼の必要を満たすために造られている。天使たちは昼も夜も彼を守るよう命じられている。彼らのうち、雨を降らせ植物を育てるよう命じられた者たちは彼の糧を生じせしめる。天の軌道は彼に服従するよう命じられ、また彼のために回転する。太陽、月、そして星々は、全て軌道の上に据えられ、彼に時間を告げ、食事の時刻を知らせる。空の領域には風や雲、鳥たちがあり、それらもまた全て彼のために用意されている。それよりも低いところには海や川、木々と果実、植物と動物、そこには全てが揃っている。アッラーは言われる、

アッラーこそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせられ、あなたがたのために御恵みになられる方である。また船をあなたがたに操縦させ、かれの命令によって海上を航行させられる。また川をあなたがたの用に服させられる。またかれは、太陽と月をあなたがたに役立たせ、両者は飽きることなく(軌道)を廻り、また夜と昼をあなたがたの用に役立たせられる。またかれはあなたがたが求める、凡てのものを授けられる。仮令アッラーの恩恵を数えあげても、あなたがたはそれを数えられないであろう。人間は、本当に不義であり、忘恩の徒である。(イブラーヒーム章 14:32-34)

かれの名誉を人間の上に完成させるために、かれは人間が現世での生活において必要とする全てを造りたもう。そしてそれらは、全て人間が来世における最も高い地位を得るのに必要なものでもある。このように、かれは人間に対してかれの書物を啓示し、かれの使徒たちを遣わし、アッラーの法を説き、これに従うよう呼びかける。

それから、アッラーは彼のため、彼自身から − アダム自身から、という意味であるが − その妻を造りたもう。彼が彼女と共に生きる喜びを享受し、彼の自然の欲求を、精神的にも、知的にも、また肉体的にも満たすためである。それで彼は、彼女と共に心地よさと静けさ、安心、満足、愛と慈しみを見出すだろう。何故なら彼らは肉体的、精神的、また感情的な面においても、双方が共にお互いの欲求に応じるよう造られており、また双方が共に新たな世代を生み出すよう調和して造られているためである。どちらの魂も、共にこうした感情によって満たされ、また彼らの関係性はその魂と感情を心地よさで満たし、肉体と精神に平安をもたらし、人生と、生活に安定をもたらす。男女が対等であることにより、魂と良心に親しみと静けさをもたらすのである。

それから、アッラーは人類の中から信者を選び、彼らを彼の友人としたもう。彼らをしてかれに従わせ、かれの楽園に住まうのにふさわしくなれるように、かれの法に沿ってかれのために働くよう促したもう。また人間の魂の喜びとして、彼らの中から預言者たち、使徒たち、聖者たちと殉教者たちを選び、現世において彼らに最高の援助を与え、祝福したもう − アッラーへの崇拝、かれへの服従と嘆願がそれである。かれはまた、偉大なる援助を以て彼らをその他の者と区別した。すなわち、その他の者には得ることが出来ない平穏、静寂と幸福、そして何より偉大な事実は、彼らは使徒たちによってもたらされた真実を知り、それを信じているという点である。またアッラーは、彼らのために − 来世に − 尽きることのない祝福と、偉大なる成功と利益を取り置きたもう。優しき主よ、かれに称賛あれ。かれはまた、彼らのかれへの信仰、かれへの忠誠に応じて、更に多くの恩寵を与えたもうことだろう。

女性の地位:

イスラームにおいては、女性は高い地位を与えられている。それ以前の宗教やいかなる民族も与えなかったものをイスラームは与えている。何故ならイスラームが人類に贈る名誉は、平等の原則に基づいて男女の双方に分け与えられるものだからである。終末の日におけるかれの報奨も返報も平等であるのと同様、現世においても人類はアッラーの原則の前に平等である。アッラーは言われる、

われはアーダムの子孫を重んじて、・・・かれらを優越させたのである。(夜の旅章 17:70)

かれはまたこうも言われる、

男は両親および近親の遺産の一部を得、女もまた両親及び近親の遺産の一部を得る。(婦人章 4:7)

女は、公平な状態の下に、かれらに対して対等の権利(配偶者の扶養を得る権利)をもつ。だが男は、(服従と敬意の義務において)女よりも一段上位である。(雌牛章 2:228)

男の信者も女の信者も、互いに仲間である。(悔悟章 9:71)

あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが、あなたと一緒にいて老齢に達しても、かれらに「ちぇっ」とか荒い言葉を使わず、親切な言葉で話しなさい。して敬愛の情を込め、両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て、「主よ、幼少の頃、わたしを愛育してくれたように、2人の上に御慈悲を御授け下さい。」と(祈りを)言うがいい。(夜の旅章 17:23-24)

主はかれら(の祈り)を聞き入れられ、(仰せられた)。「本当にわれは、男でも女でも、あなたがたの誰の働いた働きもむだにしないであろう。」(イムラーン家章 3:195)

誰でも善い行いをし(真の)信者ならば、男でも女でも、われは必ず幸せな生活を送らせるであろう。なおわれはかれらが行った最も優れたものによって報奨を与えるのである。 (蜜蜂章 16:97)

誰でも、正しい行いに励む者は、男でも女でも(アッラーの唯一性に対する)信仰に堅固な者。これらは楽園に入り、少しも不当に扱われない。(婦人章 4:124)

イスラームにおいて女性が享受するこの名誉は、他のいかなる宗教は信条、あるいは法とも異なるものである。ローマ文明は、女性は奴隷であり男性に従属すべきものであり、彼女にはいかなる権利も与えられないと制定した。ローマにおいては、女性の問題について議論するための大会議さえ行われたのである。会議は、女性は生命なき存在であり、汚れているがゆえに来世の取り分を得ることはできないと結論づけた。

アテネでは、女性たちはぼろきれ同然に扱われた。彼女たちは他の品物と同じように売買され、忌むべき悪魔の仕事に従事させられていた。

古代インドの法令によれば、疫病や死、地獄、毒、蛇や炎といった全ての方が、女性よりも良いものとされている。彼女の生きる権利は、彼女の所有者とみなされる人物、すなわち夫の死と共に終わるのが常であった。夫が火葬されているところに自らも身を投じねばならないとされ、そうしなければ非難を浴びせられた。

ユダヤ教においては、女性たちについて旧約聖書に以下の見解が記されている:

『私は知を得るために心と共にどこへでも赴き、悪とは無知であり、愚かさは狂気であるがゆえに知恵と知識を探し求めた。そして私は、女とは死よりも悪い罠であり、その心は足枷であり、またその手は手枷であることを知った。』(注:Sifrul jaami’ah 7:25-26参照。旧約聖書とはキリスト教徒およびユダヤ教徒の両方によって神聖視され信じられている)(英訳者による注:訳者は、引用されているこの二句に該当する箇所を英語版旧約聖書に見出すことは出来なかった。そこでこの箇所は、原著者によって本書のアラビア語版から直接翻訳された。)

これが古代における女性たちの置かれた状態であった。中世や現代については、以下の出来事が物語っている。

デンマーク人作家のウィース・コールドステンは、女性に対するカトリック教会の見識を以下のように語っている。「中世の時代、ヨーロッパにおける女性に対する配慮はごく限られていた。これは女性を二等市民とみなすカトリック信仰の見解と一致していた」。

フランスでは西暦586年に会議が開かれ、女性を人間としてみなすべきか否かという問題について議論がなされた。議論は最終的に、女性は人間であるが男性に奉仕するために創られていると論者たちは結論づけた。

フランス法第217号は以下のように定めている:「既婚女性には、売買取引において夫の同伴または同意書なしに承諾、振込、保証、(支払いの有無に関わらず)所有する権利はなく、それは婚姻契約の中に夫婦の所有する品目の権利がそれぞれの当該者に対し完全に分離・独立すると明記されていたとしても同様である。」

イギリスではヘンリー八世によって女性が聖書を読むことが禁じられ、それは1850年まで続いた。1882年まで女性たちはイギリス市民とはみなされず、彼女たちに人権はなかった。(注:Dr. Ahmad Shalaby著 “Silsilatu muqaaranatil adyaan” 3/210-213参照)

現代ヨーロッパやアメリカ、その他工業国における女性の状況に関しては、彼女たちは商業広告の一端を担っており、営利目的の道具として用いられている。この状況は、商品を売るために女性が服を脱いで肌をさらすというところにまで至っている。女性を快楽の道具とみなす男性の都合により、あらゆる場面において彼女たちの体と名誉が冒涜される。

現代の女性たちは彼女の財産や知性、肉体を提供し続ける間は、まがりなりの世話や手当の対象となる。しかし年齢を重ねて差し出すものが何も無くなったとき、個人も社会も、その全体が彼女を見捨てる。彼女は自分の家か施設で孤独な生活を送る。

上記に − もちろん、同等たりえるはずもないが − 比して、高貴なるクルアーンにはこう記されている、

男の信者も女の信者も、互いに仲間である。(悔悟章 9:71)

女は、公平な状態の下に、かれらに対して対等の権利(配偶者の扶養を得る権利)をもつ。だが男は、(服従と敬意の義務において)女よりも一段上位である。(雌牛章 2:228)

あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが、あなたと一緒にいて老齢に達しても、かれらに「ちぇっ」とか荒い言葉を使わず、親切な言葉で話しなさい。して敬愛の情を込め、両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て、「主よ、幼少の頃、わたしを愛育してくれたように、2人の上に御慈悲を御授け下さい。」と(祈りを)言うがいい。(夜の旅章 17:23-24)

アッラーは女性に名誉を授け、全人類に対してかれが彼女を母、妻、娘、姉妹として創られたことを明らかにし、またこうした彼女たちの役割を、特別なものとして定めたもうたのである。

 人間はなぜ創造されたのか

前章ではアッラーが、アーダムとその妻ハッワを創りたまい、また彼らを楽園に住まわせたもうたことを論じた。それから、アーダムは彼の主が命ずるところにそむき、そののち悔悟して赦しを請うた。アッラーは彼の悔悟を受け入れ、彼を導きたもう。アッラーは、その上で彼に楽園を去るよう命じ、地上へ降り立つよう命じたもう。アッラー、栄光と称賛の主、かれの知恵は人間の知性では計りしれず、人間の言葉で説明しきれない。ここではそうした知恵のうちいくつかについて触れ、またそれらの理由を述べる。

1. アッラーが被創造物を創造したのは、かれに仕えさせるためである。かれは言われる、

ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。(撒き散らす者章 51:56)

また他人に命じられたがゆえに仕えているのだとしたら、それは祝福と永遠の住処ではなく、試練と困難でしかないことはよく知られる通りである。永遠の住処とは幸福のそれであり、試問や命令のそれではない。

2. アッラーは人間たちの中から預言者たち、使徒たち、友、殉教者たちのように、かれが愛し、またかれを愛する者たちを選び出したもう。それからかれは、彼らをその敵と共に過ごさせ、それをもって試練とされる。その上で彼らが、何よりもかれを最優先し、かれのご満悦と愛を得るために自らの生命と財産を犠牲にしたならば、彼らは、そもそもそれ無しには何ひとつ成し遂げられなかったであろうかれの愛とご満悦を得る。預言者の資質、殉教者の資質は、アッラーの御前において最も良き位階であり、アーダムとその子孫たちに地上へ降り立つよう命じたもうアッラーの定め無しには成し遂げることは不可能である。

3. アッラーは唯一の真実かつ明白な王である。命じたまい、禁じたもう唯一の王であり、報いまた罰するのも、不名誉または名誉を与えるのも、また強めるも弱めるもかれである。アッラーの大権あればこそアーダムとその子孫たちは、かれの大権によって統治される住処に住まい、それから、行いの全てに対する返報を伴う住処へと移されたのである。

4. アッラーはアーダムを、一握りの土から造りたもう。そして土地には、善い場所もあれば悪い場所もあり、高い場所もあれば低い場所もある。アーダムの子供たちの中には、かれとかれの館に住まうのにふさわしくない者もいることをアッラーは知っておられる。そこでかれは、善悪の区別がつけられる住処へアーダムを下がらせたもう。それから、アッラーは彼らのために二つの異なる住み家を造りたもう。かれは善き者たちをかれの住処の住人とし(楽園へ招き入れ)、悪き者たちを苦悩(地獄の業火)の住処の住人としたもう。

5. 美しい名前はアッラーに属する。次に挙げるのはかれの名前のごく一部である:「ガフール(幾度でも赦す者)」、「ラヒーム(最も慈悲深い者)」、「アフッウ(幾度でも免じる者)」、「ハリーム(最も辛抱強い者)」。アッラーの美しい名前が顕現する地上へ、アーダムとその子孫を下がらせたもうのは、これらの名を知らしめようとのアッラーのお知恵である。それゆえかれはお望みの者を赦し、お望みの者に慈悲をかけ、お望みの者を免じ、またそれ以外にも、かれの名前と属性とを知らしめるために様々な異なる方法を用いたもう。

6. アッラーは、アーダムとその子孫に、善悪のいずれにも引き寄せられる性質、また欲望と誘惑、あるいは理性と知識のいずれにも引き寄せられる性質を兼ね備えたものとして造りたもう。彼を理性と欲望あるものとして造り、そのいずれにも必然性を造りたもうのは、かれの意志を成就させるためであり、またかれの知恵と権能の偉大さをしもべに知らしめるためである。また同時に、かれの慈悲、慈愛、寛大、大権と王権のためである。それから、かれはその知恵もてアーダムとその子孫を地上に送りたもう。これらの契機がいかなる影響を及ぼすか、またこれらの契機を前に、人間がいかに備え、対処するのかを明らかにするためである。それに応じて、アッラーはふさわしい者には名誉を授け、またある者には不名誉を味わわせたもう。

7. 目には見えないものへの信仰は有益な信仰である。これが目に見えるものへの信仰であれば、誰しもが復活の日を信ずるようになるだろう。もしも人間が祝福の住み家(楽園)に造られたなら、見えないものへの信仰という歓喜と名誉をもたらす位階を得ることもなかっただろう。アッラーが彼らを、見えないものへの信仰を得る機会に恵まれた環境へ住まわせたもうたのは、これが理由である。

8. アッラーがしもべたちに好意を示すのは、この最大限に完成された好意とその偉大さにより、しもべたちがかれに感謝し、何よりもかれを愛し、かれが授けたもう至福を最大の歓喜とするのを望みたもうからである。それゆえアッラーは、かれの敵に対するかれのみわざや、彼らに対して用意された罰を開示したもう。同時にかれは、彼らの歓喜をいや増すためにも、しもべたちを、かれが授けたもう最高の至福の目撃者としたもう。これが、かれからのしもべたちに対する恩恵の成就の状態である。従って、これら全てを達成するために、かれは彼らを地上へ送り、彼らに試練を与え、誰であれ、かれが望む者には慈悲と寛容を勝ち得させ、また誰であれ、かれが望む者にはかれの知恵と正義から逸らさせて不名誉を被らせる。かれは最も賢く、全てを知りたもう。

9. アッラーは、アーダムとその子孫が最良の状態で楽園に帰ることを望みたもう。そのため、帰りつく前にこの世の困難や悲しみ、苦しみを味わわせたもう。それらは美とは正反対であるため、来世において楽園に入ることの価値は、彼らにとり非常に高いものとなるだろう。(注:Miftaah daaria-Sa’aadah 1/6-11参照)

人間の起源について明らかにした後は、彼らに真の宗教が必要とされることについて解き明かすのが順当であろう。

 人間における宗教の必要性

人間にとり宗教の必要性は、その他いかなる生活の必需品に対する必要性よりもはるかに大きい。人間は、アッラーが何を喜ばれ、また何を嫌われるかを知らねばならないからである。また、自らに害を及ぼすことのないよう、自分にも他人にも益のある行いを心がけねばならない。そこで、恩恵をもたらす行為と害をもたらす行為と区別するのが神の法である。それはアッラーの被創造物にもたらされた正義であり、かれのしもべたちへの光である。人々は神の法によって何をすべきか、また何をすべきでないかの判断がつけられるのであり、これ無しに生きてゆくことはできない。

もしも人間が本当に意志を持つのなら、まず自分が何を欲しているのかを知らなくてはならない。自らを益するものを欲するのか、それとも害するものを望むのか?自らをより良くするものを欲するのか、それとも貶めるものを望むのか?一部の人々は、これを自然と身につけている。また一部の人々は、彼らの推量を働かせることによりこれを知る。そしてまた一部の人々は預言者たちと、その導きが伝えること以外は知らずにいる。(注:Sheikhul-Islaam Ibn Taymiyyah著”At-Tadmuriyyah” p. 213-214ならびに Miftaahu daaris-Sa‘aadah 2/383参照)

しかしながら無神論と物質主義的な思想が蔓延し、もてはやされ、イデオロギーと理論が増殖する中で、個人も社会も真の宗教無しにはもはや立ち行かなくなっている。なぜならイデオロギーには、人間の精神的・物質的な必要を満たすことは決して出来ないからである。深く関われば関わるほど、それらが何の安心ももたらさず、渇きをいやしてくれることもなく、真の宗教を避けて通ることは出来ないことを確信するようになる。

エルネスト・ルナンはこう述べている。「我々が愛するものは全て儚く消え去る。知性を行使する自由も、知識も、技術も無価値になり得る。だが宗教を消滅させることは不可能である。むしろそれは、実際のイデオロギーがいかに人々を卑小で狭隘な現世的生活に縛り付けるかの生ける証拠となるだろう」。(注:Muhammad Abdullah Daraaz 著”Ad-Deen” p. 87参照)

ムハンマド・ファリード=ワジュディーは言う。「それが人間を高めているという事実は言うまでもなく、人間の意識における最も尊く気高い性向である限り、宗教的な思考を消し去ることは不可能である。そうした傾向は、減少するというよりもむしろ増加している。美醜の判断がつく限り、人の宗教的資質は常に彼に付き添う。そしてこの資質は、彼の精神的な能力をその極致にまで高め続け、彼の知識を増やし続ける」。(注:同著p. 88参照)

そのため、もしも人間がその主に近づかずにいるようなら、それは彼の精神的な能力と知識の範囲における、自らの主と自らの使命についての大いなる無知によるものである。やがて彼は自分が無知であり、何が彼にとって善なのか、また何が彼にとって害なのか、何が彼に幸福をもたらし、何が彼に不幸をもたらすかについても無知であると認めるだろう。彼はまた、天文学や宇宙学、計量学、核科学といった科学的知識にも欠けていることを認めるだろう。世界が、妄想と傲慢の舞台から降りて謙遜と服従のそれに変わり、これら諸科学の背後に存在する知識豊かで賢き者を信じ、自然の背後に存在する全能の創造者を信じるのはその後である。この現実は、公正な学者に目に見えぬものを信じさせ、直立不動の宗教に従い、自然の直観の呼び声に応じるよう促す。だがこの道から逸れるようであれば、その者の性質も元に戻り、もの言わぬ動物の水準にまで下がることだろう。

以上を結論づけると、人生において、真の宗教 - アッラーの唯一性を信仰し、かれの命じるところに従った崇拝行為の実践に依拠する - は必須の要素である。これを通じて人間は万有の主たるアッラーへの服従を実現し、またこれを通じて幸福を得、破滅や困難、不幸からの守護を得るのである。それはまた人間の論理的資質を完成させるのに必要不可欠である。人間の知的欲求を満たし、最高地点まで高めることも可能であろう。

同様に、宗教は魂を浄化し、感情の力を洗練するためにも必須の要素である。高貴な情緒は、探し求める豊かな空間と涸れることのない泉を宗教の中に見出すであろう。そしてそれこそ、高貴な情緒が探し求めるものなのである。それはまた、意志の力を完成させるのに必須の要素である。絶望に抵抗するための活力を与え、大いなる刺激を以て支えるものだからである。

こうした視点からすれば、もしも「人間は本来、礼儀正しい」という者があるなら、またこうも付け加えるべきであろう -「人間は本来、信心深い」。人は二種類の力を持っている。科学的推論の力と、意志の力である。彼の幸福の成就は、科学と意志の両方の力の完成にかかっている。そして科学的な能力の完成のためには、人は以下について知らねばならない:

1. 創造者であり庇護者である真の主を知ること。かれは人間を無から造り、恩恵を授けたもう。

2. かれの名前と属性を知り、それらが全てかれの有であると知り、また、それらの名前がかれのしもべに与える影響について知ること。

3. かれへと至る道を知ること − かれに称賛あれ。

4. この道と、この道を経て得られる偉大なる至福を知ることを妨げるものの支障と害悪について知ること。

5. 自らの魂の真の姿を知ること。魂が何を必要とし、また何が善で何が害であるかを知り、その資質や欠点を知ること。

これら五つを知ることで、人はその科学的な能力を完成させることができる。そしてアッラーがしもべたちに対して有する権利に敬意を払い、この権利を、預言者のスンナに従い誠実かつ真摯に、またかれの恩寵を得るための試練と捉えて遂行するのでない限り、科学的な能力や意志力の完成は実現し得ない。かれの援助なしには、これら二つの力の完成は無い。アッラーが、その友を導きたもう真正なる道に、彼もまた導かれねばならない。(注:AL-FAwaaid 18,19参照)

真の宗教が、様々な魂の能力に対する神の援助であることを確認してきたが、それと同時に、宗教は社会における保護壁でもあるということを知っておかねばならない。人間の生活はお互いに協力し合わない限り万全のものとはならず、この協力を維持するには、義務を定め、権利を保護し、人間関係を調整するシステムが不可欠である。このシステムには、制限や権限による抑制も必要とされる。魂によるシステムへの異背を防いでシステムを順守するよう奨励し、関係者たちには保証を与え、人による冒涜を防ぐ。ではこの権限とは何であろうか?

地上のどこを探しても、宗教の持つ力に優るか、あるいは少なくとも互角の力というものは存在せず、命令の遵守、社会的結束、システムを安定させ、安心とやすらぎをもたらす調和を保証するものは何ひとつ無い。

これについての根本的な理由は以下の通りである。すなわち、人間はその他の生物とは区別される。彼の自発的な動作や行為は、目には見えず、耳にも聞こえない、超越不可能な要素によって制御されている。この要素こそ、魂を純化し手足を浄化する信仰である。それ故、人間は常に真のあるいは偽の信仰によってコントロールされる。もしも彼の信仰が正しければ、彼の全ても正しいだろう。だが、もしも彼の信仰が不正であれば、彼の全ても不正となるだろう。

信仰とは、人間を監視する内発的な監視者である。そしてこれには - 全ての人間に共通して - 以下の二種類がある:

- 洗練された道徳や人間の尊厳、またその他にも、たとえ対外的な結果や実質的な応報には無関係であったとしても、高潔な人物であれば違背するのが憚られる普遍的な概念の価値を信じること。

- アッラー - 栄光と称賛はかれに属する  - を信じ、またかれが、秘匿についての不断の監視者であり、隠されたものごとを全てご存じであると信じること。イスラーム法の権能は、かれの命令と禁止に由来している。かれを前に、かれへの愛、かれへの恐れ、 あるいはその両方による抑制を十二分に感知すること。

この種の信仰が、いずれも人間の意識に対する強い権威となるのは疑いようもない。それはまた、気まぐれの嵐や一貫性のない感情に対する抵抗を強め、人々の意識や彼らの指導者たちの衝突をより早く解消することだろう。

これがいかなる社会においても、人間関係の基礎として必須となる正義と公平さについて、宗教こそが最も優れた保証者となる理由である。人間の身体において心に相当する位置を、人間社会において宗教が占有していることに、何ら不思議はないのである。(注:Ad-deen p.98,102参照)

これが一般に宗教の地位とすれば - そして現代の世界において、私たちは数多くの宗教と信条を、それぞれの集団が喜んで信仰し、かつ頑なにしがみついているのを目の当たりにしている - 一体、人間の意識が求めてやまない真の宗教とは何か?また、真の宗教の一般的な基準とは何であろうか。

 真の宗教における普遍的な特徴

あらゆる信条の支持者は、自らの信条を真実であると信じている。またあらゆる宗教の信徒たちも、自らの信仰を真実であると信じ、また彼らの宗教こそ最も優れた道であると信じている。不純物の混じった宗教の信徒や、人間によって造られた信条の支持者たちに彼らの信仰を証明するよう求めれば、彼らはそれが彼らの父たちの信仰であり、それゆえに彼らと同じ道を支持するのだと主張するだろう。その上で、彼らは伝承者の経路も不確実な言い伝えや、過誤と欠陥が無いとは言えない書物からの物語を持ち出すだろう。彼らは著者も記録者も、またその原語さえも定かではない根拠不詳の書物を継承し、これに依存するばかりである。それらはねつ造され、拡大され、伝承者の経路について学問的精査も受けず、テキストの正確さについても確認されずにただ受け継がれてきた混乱の物語に過ぎない。

こうした詳細が不明な書物、伝承、盲信的模倣を、宗教および信仰の確証として取り扱うことは出来ない。あるいは、こうした混淆宗教や人工的な教条の全てが真実、または全てが虚偽といったことがあり得るだろうか。全ての宗教が真実であるというのは不可能である。何故なら真実というものはたったひとつであり、複数あるというのはあり得ない。また、これらの混淆宗教や人工的な教条が、全てアッラーから下された真実である、というのも不可能である。複数の宗教があり、真実がたったひとつであるならば、ではこれらのうちどれが真実の宗教だろうか?そこで、真実の宗教と虚偽を見分ける基準が必要となる。基準に照らして、合致した宗教であれば、それこそが真実の宗教であると知ることができる。また基準の全てに合致しないか、あるいは一点でも欠けるようであれば、それが虚偽の宗教であるということが知れるだろう。真の宗教と虚偽を区別する基準とは以下の通りである:

1: 宗教はアッラーより下され、人類に伝達するよう、天使を介してかれの使徒に啓示されたものでなくてはならない。真実の宗教はアッラーの有である。かれはそのしもべたちに報い、また復活の日には、彼らに対してかれが啓示した宗教について問いただす。かれは言われる、

本当にわれは、ヌーフやかれ以後の預言者たちに啓示したように、あなたに啓示した。われはまたイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブお よび諸支族に(啓示し)、またイ―サー、アイユーブ、ユーヌス、ハールーンならびにスライマーンにも(啓示した)。またわれはダーウードに詩篇を授けた。(婦人章 4:163)

かれに称賛あれ、かれはまたこうも言われる、

あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。(預言者章21:25)

上記の御言葉と基準に従えば、誰かしら人間によって持ち込まれ、アッラーではなくその人物に起因するならば何であれ、それは確実に虚偽の宗教である。

2: 宗教は、アッラーのみを崇拝するよう呼びかけるものでなくてはならない。シルク(あらゆる形態の多神教)と、シルクに通じる全てを禁じるものでなくてはならない。何故なら全ての預言者たち、使徒たちの主要な使命とは、アッラーの唯一性へと差し招くことだからである。全ての預言者は彼の民にこう告げた:

アッラーに仕えなさい。あなたがたには、かれの外に神はないのである。(夜の旅章 7:73)

3: 全ての使徒たちが、アッラーのみを崇拝するよう彼らの民に呼びかけ、多神教や両親への不孝、正義なき殺人、その隠されたものであれ現されたものであれ、その他全ての不道徳を排除するよう呼び掛けるという原則において一致するものでなければならない。アッラーは言われる、

あなた以前にも、われが遣わした使徒には、等しく、「われの外に神はない、だからわれに仕えよ。」と啓示した。(預言者章21:25)

かれはまたこうも言われる、

言ってやるがいい。「さて、わたしは主があなたがたに対し禁じられたことを、読誦しよう。かれに何ものでも同位者を配してはならない。両親に孝行であれ。 困窮するのを恐れて、あなたがたの子女を殺してはならない。われは、あなたがたもかれらをも養うものである。また公けでも隠れていても、醜い事に近付いて はならない。また、アッラーが神聖化された生命を、権利のため以外には殺害してはならない。このようにかれは命じられた。恐らくあなたがたは理解するであ ろう。(家畜章 6:151)

かれはまたこうも言われる、

あなた(ムハンマド)以前にわれ(アッラー)が遣わした、使徒たちに問いなさい。われは、慈悲深き御方以外に仕えるべき神々を置いたのか。(金の装飾章 43:45)

4: ある問題を命じつつ、一方でそれとは別の問題を命じるといった自己矛盾があってはならない。また、何ごとかを禁じておきながら、それに近しいものを理由なく勧めたり、ある集団には禁じつつ別の集団には許可するといったことがあってはならない。アッラーは言われる、

かれらはクルアーンを、よく考えてみないのであろうか。もしそれがアッラー以外のものから出たとすれば、かれらはその中にきっと多くの矛盾を見出すであろう。(婦人章 4:82)

5: 宗教は、人々のために彼らの宗教、名誉、財産、生命と子女について、その命令や禁止、抑止力や道徳を通じて保障し、またこれら5つの原則的な事柄を保護するものでなくてはならない。

6: それは人類への慈悲として用いられるものでなくてはならない。他人の権利や公共財を奪ったり、強者が弱者を過誤に踏み込ませたりといった、彼ら自身の不正、あるいは他人から被る不正から彼らを庇護するものでなくてはならない。預言者ムーサーに授けられたトーラーの慈悲を説く際に、アッラーは言われた、

ムーサーは怒りが静まると、板碑を取り上げた。その上には、主を畏れる者への導きと慈悲が記されていた。(高壁章 7:154)

かれはまた、預言者イーサーのメッセージについて説く際にこう言われる、

それでかれ(マルヤムの息子)を人びとへの印となし、またわれからの慈悲とするためである。(マルヤム章 19:21)

かれは預言者サーリフについてこう言われる、

かれは言った。「わたしの人びとよ、考えてみたのか、わたしが主からの証の上にたち、かれはわたしに、親しく慈悲を与えられるのに、もしわたしがかれに従わないならば、誰がアッラー(の怒り)からわたしを救助することが出来ようか。」(フード章 11:63)

かれはクルアーンについてこう言われる、

われが(段階を追って)クルアーンで下したものは、信者にとっては(精神的な)癒しであり慈悲である。(夜の旅章 17:82)

7: アッラーの法についての導きを伴った、アッラーの法の意図を人間に教えるものでなくてはならない。それはまた、人間に対して彼の起源と、その最終的な目的地についても教えるものでなくてはならない。トーラーについて、アッラーは言われる、

誠にわれは、導きとして光明のある律法を、(ム-サーに)下した。(食卓章 5:44)

インジール(イーサーに与えられた書物)について、かれは言われる、

導きと光明のある、福音をかれに授けた。(食卓章 5:46)

かれはクルアーンについてこう言われる、

かれこそは、導きと真理の教えをもって使徒(ムハンマド)を遣し、・・・(悔悟章 9:33)

アッラーの法への導きが含まれたものこそが真実の宗教である。心に平安と静けさを与え、隠微な仄めかしを排除し、全ての疑問への解答、あらゆる問題への解決となる。

8: それは高潔な人格を呼び覚ますものでなくてはならず、誠実、正直さ、純潔、寛大といった行為に合致するものでなくてはならない。また両親に反抗したり、罪なき魂を殺害したりといった悪しき行為や、嘘や不正、不当な攻撃、吝嗇、罪業といったあらゆる不道徳を禁じるものでなくてはならない。

9: それは信仰する者に幸福を与えるものでなくてはならない。アッラーは言われる、

ター・ハー。われがあなた(ムハンマド)にクルアーンを下したのは、あなたを悩ますためではない。(ター・ハー章 20:1-2)

また、それは高潔な性質と調和するものでなくてはならない。「アッラーが人間に定められた天性に基づいて。」(ビザンチン章30:30) 健全な理性とも調和するものでなくてはならない。何故なら真実の宗教を制定したもうはアッラーであり、同様に健全な理性を創造したもうはアッラーである以上、アッラーの法と被創造物が互いを否定し合うようなことはあり得ないからである。

10: それは真実へと導き、虚偽について警告し、人々を過ちから遠ざけ、彼らをして歪曲なき真正の道へと連れてゆくものでなくてはならない。クルアーンが朗読されるのを聞いたジンがその仲間たちに何と言ったかについて、アッラーはこう言われる:「わたしの人々よ、わたしたちはムーサーの後に下された啓典を確かに聞きました。(それは)それ以前に下されたものを確証し、真理と正しい道に導くものです。」(砂丘章 46:30)

それが人々に不幸をもたらすものであってはならないことは、クルアーンにおいてアッラーが言われた通りである:

ター・ハー。われがあなた(ムハンマド)にクルアーンを下したのは、あなたを悩ますためではない。(ター・ハー章 20:1-2)

真実の宗教は、人々に対し彼らの破滅を招きかねないようなことを命じるものであってはならない。アッラーは言われる、

またあなたがた自身を、殺し(たり害し)てはならない。誠にアッラーはあなたがたに慈悲深くあられる。(婦人章 4:29)

それは人種や肌の色、血統によって信じる者を区別するものであってはならない。アッラーは言われる、

人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。本当にアッラーは、全知にして凡ゆることに通暁なされる。(部屋章 49:13)

従って真実の宗教が、人々の優劣を決める基準として認めているのは信仰の深さなのである。

以上、真実の宗教と虚偽との区別についてクルアーンから確証を引用し、アッラーによって使わされた全ての誠実な預言者たちに関する普遍的な基準を検証した。それを踏まえ次章においては、宗教の分類について述べるのが適切であろう。

 宗教の分類

信仰が二通りに分類される以上、人間もまた以下のように分類される:

最初の分類はユダヤ教徒、キリスト教徒、そしてムスリムのように啓示された書物を有する者たちである。ユダヤ教徒、キリスト教徒については、書物に記された事柄について彼らが無知であったため、結果として彼らの預言者たちに啓示された書物は失われてしまった。彼らが人間を神としてアッラーと同列に配したために、長い歳月が過ぎ去ったのちには、書物に関する彼らの知識も失われていたのである。そのため、彼らの聖職者たちは書物を執筆した。そしてそれがアッラーから下されたものではなく、虚偽者の仮説と狂信者の歪曲に過ぎないにも関わらず、アッラーに起因するものであると主張する。

ムスリムの書物である聖クルアーンに関しては、これこそは神による最後の書物であり、最も力強くかつ堅固である。その維持についてはアッラーが御自ら保証したまい、人間に委任されることは無かった。かれは言われる、

本当にわれこそは、その訓戒(クルアーン)を下し、必ずそれを守護するのである。(アル・ヒジュル章 15:9)

従ってクルアーンは、人類の導きとしてアッラーが保証したもう最後の書物であるが故に、人々の心と書物の中に護持される。かれはこれを以て終末の時に至るまでの確証とし、その永続を命じたもう。かれはこれを、あらゆる時代においてその命令と御言葉を学び、その法を行い、信じる者たちに与えたもう。この書物に関する詳細な解説は、のちの章において述べることとする。

もう一方に、ヒンドゥー、マギ、仏教や儒教、あるいはムハンマド出現前のアラブのように、宗教の開祖に帰するものとして継承されてきた書物を持ちながらも、アッラーによって啓示された書物を持たない宗教の支持者たちがいる。

現世の利益に関する知識をいくばくも持たず、またこれに基づいて行動しない共同体はない。これは全人類に授けられたアッラーの知識であり、それは動物たちでさえ授かっている。動物たちは、例えば食物や飲物といった益をもたらすものについて、また何が害であり避けるべきかといった導きを得ている。アッラーは、前者に対する愛情と後者に対する嫌悪をそれらの中に生じさせたもうたのである。かれは言われる、

至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい。かれは創造し、整え調和させる御方、またかれは、法を定めて導き、牧野を現わされる御方。(至高者章 87:1-4)

かれはまた、預言者ムーサーがフィルアウンに何と告げたかについて我々に知らせたもう、

「わたしたちの主こそは、万有を創造し、一人一人に(姿や資質その外を)賦与され、更に導きを与える方である。」(ター・ハー章 20:50)

かれはまた、預言者イブラーヒームが彼の主について 「かれはわたしを創られた方で、わたしを導かれ、」(詩人たち章 26:78) と告げたことについても知らせる。(注:Al-Jawaab As-Saheeh 4, Page 97参照)

正常な者 - 最低限の自省心と思考感覚を持つ者 - ならば誰であれ、宗教を持たない者よりも、宗教を奉ずる者の方がより優れた方法で科学を役立たせ、正しく行動することを知っている。そのため、諸宗教の支持者たちは、それ以外の者たちが持たないものを有するとは言え、他の宗教に属する非ムスリムたちの間には、ムスリムたちが有するよりも優れているか、あるいはより完成されているものを見出すことは出来ない。科学と行動には以下の二種類が挙げられる:

第一に天文学、医学、あるいは使命感をもって従事する類いの職業など、知性と理性を通じて達成される分野が挙げられる。宗教の支持者も無神論者も、等しくこれらを有するが、しかし彼らの中では宗教の支持者の方がより優れている。神学や宗教諸学は単に理性のみを通じて理解することは出来ず、それらに関しては宗教の支持者の特権である。この種の知識は論理的な根拠によって証明されるものであり、そのため使徒たちは、論理的な根拠へと人々を導き、それらがどれほど堅固であるかを示した。そしてそれは、論理的でありかつ合法的ある。

第二に、使徒たちによってもたらされた知識無しには知り得ないことが挙げられる。アッラーに関する知識、かれの御名と属性、アッラーに従った者たちへの来世における幸福や、かれに逆らった者たちへの懲罰、かれの訓戒、過去の預言者たちとその人々についての知らせなど、こうした類いの知識と行為は、人間の理性によって達成し得るものではないのである。(注:Majmoo’ Fataawaa Shaikhul Islaam  4  p. 210-211参照)

 既存宗教の概況

偉大なる宗教とその古典、古き法の数々は軽薄かつ詐欺的な人々にとり格好の餌食となった。曲解者や偽善者の中傷の的となり、大いなる流血と災難を呼び寄せ、その精神も形式もすっかり失われてしまった。

現代におけるユダヤ教は、精神も生命も持たない一連の儀式と伝統になった。またそれとは別に、これは特定の民族による人種宗教であり、世界へ向けてメッセージを伝えることもなければ人々に対する使命も持たず、人類に対する慈悲も持たない。(注:更なる詳細については、ユダヤ教からイスラームに改宗したSamuel bin Yahya Al-Maghrabi 著 “Ifhaam al-Yahood”参照のこと。)

他宗教や他国に対する際の心得について、この宗教はその基本的な信条のために苦悩する。またこれは、預言者であるイブラーヒームやヤアクーブがその息子たちに従うよう命じた一神教の宗教である間は徳高い宗教であった。ユダヤ教徒たちは近隣諸国や彼らを支配下においた諸国の堕落した民族の信条から多くの概念を取り入れた。彼らはまた、そうした人々の土着の習慣や様式を数多く取り入れもした。これらは公平なユダヤ人歴史学者によって確認されている。ユダヤ教に関する百科事典に、その概略が記載されている:

「偶像崇拝に対する預言者の怒りは、彼らイスラエルびとの心に偶像と偽神崇拝がそっと忍び込み、それによって彼らが多神教と迷信を受け入れたことを示している。ユダヤの人々にとり異教が格別の魅力を有している事実については、タルムードにも記述されているほどである。」(注:Jewish Encyclopedia Vol. XLL. P 568-569参照)

タルムードなる口伝による文書の一群 − ユダヤ教徒たちはこれを極度に神聖視し、トーラーよりもこちらを好む。(注:「タルムード」とは「宗教と道徳に関するユダヤ教書」を指す語であり、「ミシュハー」すなわち代々に渡るユダヤ学者たちによる「法」の解説ならびに脚注を編纂したものである。)六世紀ごろにユダヤ教徒たちの間に広く流布した。それは彼らの単純な思考やアッラーに対する無礼な行為、現実に対する軽蔑、宗教と人間の知性に対する賭博じみた不合理な格言で満ちあふれている − は、当時ユダヤ教徒たちの共同体が知的にも宗教的にもどう変質したかを示している。(注:詳細についてはDr. Rohlange著“Al-Yahood alaa Hasab al-Talmud”ならびにYoosuf Hanna Nasrullaah訳“Al-kanzul marsood fee qawaaidit-talmood’’参照のこと。)

キリスト教に関してはその最初期から、過激派による歪曲や無知による変更、またキリスト教徒を自称するローマ人たちの異教的習慣に悩まされている。(注:著名なヨーロッパ人作家ドレイパーによる著作 “The Struggle between Religion and Science” p.40-41参照のこと。)(英訳者注:訳者はこの書の原題また著者名を知らず、いずれもアラビア語から音訳したものである。)(邦訳者注:正しくは “History of the Conflict between Religion and Science” 邦題「宗教と科学の闘争史」)これらの歪曲や変更、異教的要素は膨大な堆積となってキリストの偉大なる教えを埋めつくした。一神教の光とアッラーへの誠実な崇拝は、こうした混とんの背後に隠されてしまった。(注:キリスト教の詳細についてはShaykhul Islaam Ibn Taymiyyah著“Al-jawaab as-Saheeh liman baddala deenal-maseeh”ならびにRahmatullaah Al-Hindee著“Izhaar al-Haqq”、またキリスト教からの改宗者であるAbdullah At-Turjumaan著“Tuhfatul-Areeb fee radd ‘alaa ubbaad As-Saleeb”を参照のこと。)

あるキリスト教徒の文筆家は、四世紀の終わりごろにキリスト教社会に流入した三位一体について以下のように語っている:

「ひとつの神がみっつの異なる神格から成るとする信仰は、四世紀の後四半期頃からキリスト教世界とその思想の中核に深く侵入し、以来キリスト教世界の至るところにおいて公式に認められた信仰であり続けた。三位一体の形成とその秘蹟については、十九世紀後半に至るまで明らかにされることはなかった。」(注: New Catholic Encyclopaedia The Holy trinity Vol. 14 P. 295参照)

現代キリスト教徒の歴史家が「History of Christianity in the Light of Modern Science」という書籍において、キリスト教社会において見受けられる様々な多神教的様相や形態、宗教儀式の多様性、習俗や土着の民族的・宗教的英雄たちの根底にある古代の偶像崇拝に対する模倣や憧憬、無知について論じている。いわく「異教は終わりを迎えたが、しかし完全に取り除かれたというわけではなかった。むしろそれは心を手始めにあらゆるものの中へと侵入してはあたたかく迎え入れられ、キリスト教の名において隠蔽され続けたのである。人々は神々と英雄たちを放棄した替わりに、殉教者たちを取り上げて以前の神々の地位を与え、その名において偶像を築いた。このようにして多神教と偶像崇拝は、各土地における殉教者へと移行したのである。当時の終わり頃には、殉教者崇拝ならびに聖人崇拝はキリスト教世界のあらゆる地域に広まり、聖人が神格を備えていると新たな信仰の教えを形成するようになった。これらの聖者や聖人は神と人の仲介者とみなされ、西暦四世紀、古代の異教による太陽祭が新たにクリスマスと命名されてよみがえったのである。」(注:James Houston Baxter著”History of Christianity in the Light of Modern Knowledge”, Glasgow 1929 p. 407より引用)

マギ教徒については、太古の昔より自然の元素、とりわけ火を崇拝することで知られている。彼らはその崇拝を固守し、最近では寺院を建て替え、拝火の館を自国と世界のあらゆるところに広め、火と太陽への崇拝以外の宗教や信仰をすべて抹消しようとしている。こうした人々にとって宗教は特定の場所で実践される儀式と習慣に過ぎない。(注:東洋諸言語及びイラン史の専門家であるデンマーク・コペンハーゲン大学教授による著“Iran during the reign of Sasanids”ならびにマギ教徒Shaeen Makareusによる著 “History of Iran”参照のこと。)

「Iran during the reign of Sasanids」のデンマーク人著者が、彼らの宗教的指導者とその役割について次のように語っている:「彼ら聖職者たちは一日に四回、炎を崇拝しなくてはならない。これに加えて彼らは月、火、水を崇拝する。彼らは火を絶やさぬよう、また火と水を互いに近づけぬよう、また金属を錆びさせぬよう命じられている。何故なら彼らは金属をも神聖視するからである。」(注:“Iran during the reign of Sasanids” p. 155参照)  

マギ教徒は常に二元論を実践し、それは彼らの座右の銘と化している。彼らは二神を信じており、光の神あるいは善の神を「アフラ・マズダ」または「ヤズダーン」と呼び、もう一方の闇あるいは邪悪の神を「アフリマン」と呼ぶ。彼ら二神の間には対立と抗争が絶え間なく繰り広げられている。(注:“Iran during the reign of Sasanids” p.183-233参照)  

仏教はインドと中央アジア一帯の広範囲にわたる宗教である。この異教の信者たちはどこへ行くにも偶像を持ち運ぶ。彼らは行った先々でこうした偶像のための寺院を建立し、「ブッダ」の像を打ち立ててその付近に定住する。(注:ハイデラバード大学ヒンドゥー文明学教授Aishura Toba著 “The Ancient India”ならびにインドの元首相Jawahar lal Nehru著“The Discovery of India” p. 201-202参照のこと。)

バラモン教はインドの宗教である。数多くの神々を有することで知られる。この異教は紀元前六世紀、神々が三億三千万に達したときにその絶頂期を迎えた。(注:R. Dit著 “Ancient India” 3/287ならびにL.S.S.O. Malley著"The Prevailing Hinduism"p. 6-7参照のこと。)バラモン教の手にかかればあらゆるものが素晴らしくかつ有益とみなされ、全てが崇拝すべき神となるのである。その時代、偶像の制作技術は非常に大きな利益をもたらすようになり、多くの偶像制作者たちが様々な形状の偶像を作成した。

ヒンドゥー教徒の文筆家C. V. Vidyaは著書「The History of Medieval Hindu」において、アラビア半島のイスラーム出現に続くハルシャ王(606-648 A.D.)の時代について以下通り論じている:

「ヒンドゥー教も仏教も等しく土着宗教であるが、その異教的性格において仏教はヒンドゥー教のそれをはるかに凌ぐ。仏教の根源はあらゆる神格の存在を否定することにあるが、それは徐々に創始者ブッダを偉大なる神格として神聖視するようになり、のちにボーディ・サットヴァ(菩薩)といった更なる神格が加えられた。いくつかの東洋言語においてブッダの名は、偶像または彫像と同義に捉えられるようになり、インドにおける異教はその頂点を極めたのである。」(注:C.V. Vidya著”History of Medieval Hindu. Vol. I” Poone,1921参照)

こうした異教が現代の世界に広く流布していることは疑うべくもない。大西洋から太平洋に至るまで、全世界はすっかり異教に染まっているのである。この問題はセム系宗教であるキリスト教と仏教が、互いに偶像を神聖視し賛美することにかけてはまるで競走馬のように競い合うまでに至っているのである。

別のヒンドゥー教徒もその著書「The Prevailing Hinduism」において、偶像制作の技術は未だ終わるに至っていないと述べ、現存する「神々の一群」に日々新たな小さき偶像が加えられ続けており、歴史のある一時代において既に膨大であった神々の数は、今や数えきれないほどになっているとしている。(注:Abil Hasan An-Nadwi著“As-Seeratun-nabawiyyah” p. 19-28参照)

これが世界における宗教の概況である。文化的とされる国家については巨大な政府が打ち立てられ、文明や工業、芸術をその基盤に多くの科学が全盛となり、宗教を持たない国家と化している。国々は自らの起源と力を失い、正しき改革者も教師も持たず、無神論が公に宣言され、あらゆる種類の腐敗がはびこり、人は自らその価値を手放す。そのため自殺者のケースが増加し、家族の絆は断たれ、社会上の関係は混乱に陥っている。心理クリニックは多くの患者であふれ、魔術を用いる詐欺師たちの市場が定着している。こうしたいわゆる文化国家においては、人はあらゆる快楽や新しく編み出された理論や信条を試し、魂の充足や幸福、心の平安を得ようとする。しかしあらゆる快楽や、信条や理論は必ずしも彼の目的を達成してくれるわけではない。彼が自らの創造主との関係を築き、かれが使徒たちに伝えた通りの、かれが満足する方法で崇拝するのでもない限り、それらは全て彼の精神的悲惨と苦悩の種になるばかりである。主から遠ざかり、かれ以外のものに導きを求める者の状態についてアッラーは言われる、

「だが誰でも、わが訓戒に背を向ける者(クルアーンを信じず、その教えに従わない者)は、生活が窮屈になり、また審判の日には盲目で甦らされるであろう。」(ター・ハー章 20:124)

かれ − かれに称賛あれ − はまた、真の信仰者たちの人生や現世における幸福についても言われる、

信仰して、自分の信心に不義(アッラー以外への崇拝)を混じえない者(アッラーの唯一性を信じ、かれのみを崇拝する者)、これらの者は安全であり、(正しく)導かれる者である。(家畜章 6:82)

並ぶ者なき称賛の主はまたこうも言われる、

(その日)幸福な者たちは楽園に入り、あなたの主の御好みによる以外、天と地の続く限り、その中に永遠に住むであろう。限りない賜物である。(フード章 11:108)

以上の解説を前提に、真の宗教における基準をこれら諸宗教 − イスラームを除いて − に当てはめれば、基準を満たすにはどれも不足していることが明らかになるであろう。これら諸宗教における最も大きな欠落は一神教の要素である。その信者たちは他の神々をアッラーに並べて崇拝する。加えてこれらの諸宗教は人々に、彼らの生命、信仰、名誉、子孫と財産を保護するための、いついかなる時代と地域においても通用する法を与えていない。またこれらの諸宗教は人々を、アッラーが従うよう命じたもう法に導かず、またそれらに特有の矛盾の結果として信者たちに心の平安と幸福をもたらさない。

イスラームについては、次章においてそれがアッラーによる真の宗教であり、かれが満足し、人類のためにかれが選びたもう宗教であることについて述べる。

本章の終わりに預言者性の本質について、それは人類に必要不可欠なものであると定義づけることで妥当な結論としたい。次章においては使徒の役割ならびにイスラームという最後の、そして永遠のメッセージについてその基本を解説する。

 預言者性の本質

人がその人生において最も知らねばならないこととは、祝福もて彼を無から創りたもう彼の主に関する知識である。そしてアッラーが被創造物を創造したもう最大の目的は、かれのみを崇拝させることにある。

しかし人間は、どうすれば彼の正当な主を知ることができるだろうか?人間には、どのような義務と使命が課されているのだろうか? 主を崇拝するには、どうすればよいのだろうか?人は例えば病気の際には治療や薬を与えてくれる者、あるいは家を建てる際にはそれを助ける者など、人生の節目において援助となる誰かを見出すことができる。しかし彼にその主について知らせ、またどのように主を崇拝すべきかについて教えてくれる者を、一般の人々の間に見出すことはできない。何故なら人間の知性は、それのみではアッラーの意図を知ることは出来ないからである。人間はその仲間たちに対してさえ、彼らが語ることの無い限りそのの意図を予知することは出来ないのだ。それでいて、どうしてアッラーの意図を知り得るだろうか?更に加えるならばこの問題は、アッラーがメッセージを伝えるように選び出したもう使徒たちならびに預言者たち、また彼らの後に続く正しく導かれた指導者たちと、預言者の後継者たち、また彼らに従って道を歩み、彼らのメッセージを伝えることを助ける者たちにのみ限定される事柄なのである。

人間に対してアッラーの啓示が直に下されないのは、彼らにはそれを背負うことが出来ないからである。アッラーは言われる、

アッラーが、人間に(直接)語りかけられることはない。啓示によるか、帳の陰から、または使徒(天使)を遣わし、かれが命令を下して、その御望みを明かす。本当にかれは、至高にして英明であられる。(相談章 42:51)

そのためアッラーの法を受け取り、かれのしもべたちに伝えることのできる仲介者かつ使者が必要とされる。この仲介者、この使者が使徒たちであり預言者たちである。天使が預言者にメッセージを運び、預言者は人々にそれを伝える。天使たちが直に人々に啓示を運ぶことはない。何故なら天使たちの世界は、人間のそれとは異なる性質を持っているからである。アッラーは言われる、

アッラーは、天使と人間の中から、使徒を選ばれる。本当にアッラーは全聴にして全視であられる。(巡礼者章 22:75)

使徒たちは、彼が遣わされる人々の中から生じる。これは彼がその人々と同じ言葉を使用すれば、人々も彼の話が理解できるだろうとのアッラーの知恵によるものである。もしも天使たちが使徒として人々に遣わされたなら、彼らはその顔を見ることも、彼から何かを学ぶことも出来なかっただろう。至高なるアッラーは言われる、

かれらはまた言う。「何故天使が、かれに遣されないのか。」もしわれが天使を遣したならば、事は直ちに決定されて、かれらは猶予されなかったであろう。仮令われがかれ(使徒)を天使としても、必ず人間の姿をさせ、(今)かれらが惑うように、きっと惑わせたであろう。(家畜章 6:8-9)

かれはまたこうも言われる、

あなた以前にわれが遣わした使徒たちは、一人として食べ物を食べない者はなく、町を歩き回らない者はなかった。われはあなたがたをお互いの試練となるように取り計らった。」それであなたがたは耐え忍ぶであろうか。あなたの主は、(凡てのことを)照覧なされる。われとの(審判のための)会見を望まない者は言う。「何故天使がわたしたちに下されないのか。また(何故)わたしたちの主が、目の前に見えないのであろうか。」かれらは本当に自惚れて高慢であり、また非常に横柄な態度をとったのである。(識別章 25:20-21)

かれはまたこうも言われる、

われがあなたより以前に遣わし、啓示を授けたのは(天使ではなく)人間に外ならない。(蜜蜂章 16:43)

かれはまたこうも言われる、

われはその民の言葉を使わないような使徒を遣わしたことはない。(それはその使命を)かれらに明瞭に説くためである。(イブラーヒーム章 14:4)

彼ら使徒たち、 預言者たちは完成された完璧な理性と堅固な性質を兼ね備え、言動において誠実で、預けられた信託を運ぶことにかけては忠実そのものであった。その姿かたちにおいても、正常な人間の感覚にとって不快な要素は何ひとつ含まれず、見た目においても行動においても何ひとつ曇るとこは無かった。(注:”Lawaami’ul anwaar al bahiyyah Vol. 2” pp. 265ならびにAhmad Shalabee著“Al-Islaam” by p. 114参照のこと。)アッラーは彼らの体と行いを浄化したもう。彼らは行いにおいて最も完璧であり、魂において最も純粋かつ寛大である。アッラーは彼らの中に良い行いと優れた意志を結びつけたもう。また思慮深さ、知識、雅量、寛大、勇気と正義をも結びつけたもう。これらの特質により、彼らはその人々の間において際立つ者となった。預言者サーリフの人々が彼に何と言ったかについて、アッラーはその書物においてこう言われる、

かれらは言った。「サーリフよ、あなたはわたしたちの中で、以前望みをかけた人物であった。(今)あなたは、わたしたちの祖先が仕えたものに仕えることを禁じるのか。だがあなたが勧める教えに就いて、わたしたちは真に疑いをもっている。」(フード章 11:62)

かれはまた預言者シュアイブの人々が、彼に何と言ったかについてこう言われる、

かれらは言った。「シュアイブよ、あなたの祈るところのものは、わたしたちの祖先が崇拝したものを捨てるようにあなたに命じたのか。また自分の財産に関し、望み通りに処理してはならないのか。本当にあなたは、親切に正しい道に導く者なのか。」(フード章 11:87)

またアッラーの使徒ムハンマドも、啓示を受け取る以前でさえ「アミーン(誠実な者)」と呼ばれるほど、彼の人々の間ではその評判も高くい者であった。かれの主は彼についてこう言われる、

本当にあなた(ムハンマド)は、崇高な徳性を備えている。(筆章 68:4)

それゆえ使徒たち、 預言者たちは、アッラーの被創造物のうち最も優れた者たちである。かれは彼らを選び出し、かれのメッセージを人類に伝えさせたもう。

アッラーは何処で(また如何に)かれの使命を果たすべきかを、最もよく知っておられる。(家畜章 6:124)

アッラーは言われる、

本当にアッラーは、アーダムとヌーフ、そしてイブラーヒーム一族の者とイムラーン一族の者を、諸衆の上に御選びになられた。(イムラーン家章 3:33)

彼ら使徒たちと預言者たち − アッラーが示したもう高貴な特質や、その行いにおいて最も優れた者として知られるにも関わらず − は、それでいてその他の人間と同じように苦しむ人間でもあった。彼らは飢え、また病気にも罹った。眠り、食べ、結婚し、そして死んでいったのである。預言者ムハンマドについて アッラーは言われる、

本当にあなたは(何時かは)死ぬ。かれらもまた死ぬのである。(集団章 39:30)

アッラーはまたこうも言われる、

われはあなた以前にも使徒たちを遣わし、妻と子孫をかれらに授けた。(雷電章 13:38)

彼らは迫害を受けさえもした。彼らの多くは殺されるか、故郷を追われる者となった。預言者ムハンマドについてアッラーは言われる、

また不信心者たちが、あなた(ムハンマド)に対し如何に策謀したかを思い起しなさい。あなたを拘禁し、あるいは殺害し、あるいはまた放逐しようとした。かれらは策謀したが、アッラーもまた計略をめぐらせられた。本当にアッラーは最も優れた計略者であられる。(戦利品章 8:30)

しかし勝利と権威を最後に得るのは、現世においても来世においても彼らである。アッラーは言われる、

アッラーは、かれに協力する者を助けられる。(巡礼者章 22:40)

かれはまたこうも言われる、

アッラーは、「われとわが使徒たちは必ず勝つ。」と規定なされた。本当にアッラーは、強大にして偉力ならびなき御方であられる。(抗弁する女章 58:21)

 預言者性の徴候

預言者性とはあらゆる知識のうち最も高貴なものを、また行為のうち最も名誉あるものを保持するということを意味する。彼らが他とは区別されるよう、彼ら預言者たちにこうした御しるしを授けたのはアッラーの慈悲である。使命を与えられていることを宣言する者は誰であれ真理を語るに足る誠実な者か、あるいは嘘をついているかを知らしめる何かしらの徴候と条件を備えている。 これらの徴候は数多くあるが、中でも重要なものは以下の通りである:

1. 使徒とはアッラーのみを崇拝するよう、かれ以外に対する崇拝を放棄するようにと呼びかける者でなければならない。何故ならそれこそがアッラーの、被創造物を創造したもう目的だからである。

2. The 使徒とは彼を信じるよう、また自らのメッセージを実践するようにと呼びかける者でなければならない。アッラーは、その使徒ムハンマドにこう言うように命じたもう、

言ってやるがいい。「人びとよ、わたしはアッラーの使徒として、あなたがた凡てに遣わされた者である。」(高壁章 7:158)

3. アッラーは、預言者性を示す様々な徴候をもって彼を強めたもう。 こうした徴候の中には、預言者ムハンマドがアッラーから授かり、また彼の人々が決して拒むことも、作り出すことも出来なかった章句も含まれる。預言者ムーサーの杖が、蛇に変化したのもこうした徴候の一例である。預言者イーサーの徴候は、アッラーの許しを得て盲人やハンセン病患者を治癒したことである。そしてこうした数多くの預言者たちの徴候の中でもムハンマドの徴候とは、彼が読むことも書くことも出来ない文盲であったという事実にも関わらず、偉大なるクルアーンなのである。

預言者たちと使徒たちがもたらし、彼らの敵対者たちが反論も否定もできなかった明白かつ鮮明な真実もまた、こうした徴候のひとつに数えられる。むしろ彼らの敵対者たちは、預言者たちがもたらすものが抵抗しえない真実であることを知っていたのである。

またそれ以外にも、アッラーが預言者たちをそれと分かるよう与えたもう完全な相貌や美しい特徴、寛大な振る舞いなども徴候として挙げられる。

4. 使徒たち、預言者たちが呼びかけることの全ての基本は、アッラーのメッセージの基本と一致するものでなくてはならない。(注:Majmoo’Fataawa Ibn Taymiyyah,Vol. 4  p. 212-213参照)

5. 人々に対して自分を崇拝するよう呼びかけたり、何かしらの崇拝行為を自分に捧げるよう呼びかけてはならない。また彼の民族や一族を賛美するよう呼びかけてはならない。アッラーはかれの預言者ムハンマドに、人々にこう伝えるよう命じたもう、

言ってやるがいい。「アッラーの宝物がわたしの手にあるとは、あなたがたに言わない。またわたしは、幽玄界に就いても知らない。またわたしは天使であるとも言わない。わたしは、只わたしに啓示されたことに従うだけである。」(家畜章 6:50)

6. 彼の使命に対する報酬として、人々に現世におけるいかなるものも求めてはならない。かれの預言者たちであるヌーフ、フード、サーリフ、ルートそしてシュアイブが彼らの人々言ったことについて、アッラーは言われる、

わたしは、それに対しあなたがたに報酬を求めません。わたしへの報酬は、只万有の主から(いただく)だけです。(詩人たち章 26:109,127,145,164,180)

預言者ムハンマドもまた、彼の人々にこう告げた、

言え、「わたしはこの(クルアーン)に対し何の報酬もあなたがたに求めない。またわたしは偽善者ではない。」(サード章 38:86)

ここでは彼ら預言者たちと使徒たちの徴候の中からそのいくつかを論じたが、預言者性の徴候は他にも数多く存在する。アッラーは言われる、

本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。(蜜蜂章 16:36)

彼ら使徒たちは人類に幸福をもたらした。彼の物語は歴史に記録され、また彼らの宗教の訓令は、それが真実であり正義であるがゆえに繰り返し受け継がれた。同様にアッラーが、彼らを勝利によって誉れ高き者とされ、また彼らの敵に破滅をもたらしたもうことについても繰り返し語られ続けた。例えば洪水によって破滅したヌーフの人々や、水に溺れたフィルアウン、ルートの人々の懲罰などがそれである。ムハンマドもまた、敵に勝利して彼の宗教を広めた。誰であれこれを学んだ者は、彼らが人類に善と導きをもたらしたことを確信するだろう。彼らはあらゆる人々を益する方向へ導き、また害するものを避けるよう警告したのである。彼らのうち最初の者はアーダムであり、最後の者はムハンマドである。

 人類における使徒たちの必要性

預言者たちとはアッラーから、かれのしもべたちに遣わされた使徒である。彼らはかれの命令を人々に伝え、アッラーの訓戒に従う者たちに用意された幸福についての吉報と、かれに背く者たちに用意された永遠の懲罰についての警告、また彼らの主の訓戒に背いたがために、現世における懲罰と苦悩に陥った過去の人々についての物語を伝えた。

これら神による訓戒と禁令を、人知のみをもって知ることは不可能である。それゆえアッラーは訓戒と禁令を、人類にとっての名誉として定め、またそこから得られる利益を保護したもう。何故なら人々には彼らの欲望に従う傾向があり、そのために禁を犯したり、他人を攻撃してその権利を奪う。したがってその時々によって人類に使徒たちを遣わすのも、アッラーの大いなる知恵の一部である。そのようにしてアッラーの訓戒を彼らに思い起こさせ、不服従について警告し、説諭を与えて過去の人々の物語を聞かせる。何故なら素晴らしい物語が語られれば、驚くべきその含意が心を呼び覚まし、理性の感覚は喜んでそれに応じ、知識は深まり正しい認識を得るようになる。より多く聞く者は、より多く考えるようになる。より多く考える者は、より多く自省するようになる。より多く自省する者はより多く理解し、より多く理解する者はより多く行うようになるのである。そのためにも使徒たちが遣わされるのは必然である。真実を確立するためには、彼らの替わりとなるものは何ひとつ無かったのである。(注:‘Alee bin Muhammad Al-Mawardee著”A‘laam An-Nubuwwa”p. 33参照)

シャイフ・アル・イスラーム・イブン=タイミーヤは次のように述べている。(注:アフマド・ビン・アブドゥル=ハリームは、イブン=タイミーヤの名で非常に良く知られる人物である。ヒジュラ暦661年に生まれ、728年に没している。偉大なイスラーム学者の一人であり、多くの価値ある書物を著した。)

「人間の現世における生およびその最終的な住処を改革するためには、神のメッセージは必要不可欠である。メッセージに従わない者は来世の幸福を成就し得ず、またメッセージに従わない者は、現世の幸福も成就し得ないだろう。それゆえ彼は間違いなくアッラーの法に従う者となり、二つの目的の間を生きるようになる。ひとつめの目的とは彼の益となるものを探すことであり、もうひとつは彼を害から防ぐものを探すことである。そのときアッラーの法は、何が益でありまた何が害であるのかを示す光となるのである。それこそは地上におけるアッラーの光である。かれのしもべたちに対するかれの正義であり、誰であれそこへ入る者に安全を与えるかれの要砦である。アッラーの法が意味するところは、物質的な益と害の見分け方ではない。それは動物にさえできることである。ロバやラクダでも、大麦と砂の区別はつけられる。それが意味するところとは、彼の現世と来世を害する行為とは何か、また彼の現世と来世を益する行為とは何かを見分けるということなのである。例えば信仰、アッラーの唯一性を信じること、正義、公正、親切、正直、貞節、勇気、知識、忍耐、全ての良きものを楽しみ、全ての悪を禁じ、親類縁者への優しさ、両親への礼儀、隣人への親切、義務を遂行すること、アッラーのために行いを浄め、かれを信頼し、かれのみに援助を求め、かれの定命に満足し、 かれの規律に従い、かれとかれの使徒たちが彼に知らしめたことの全てを信じ、またこれ以外にも、現世と来世の生において人のためになるあらゆる行いなどがそれである。上記とは反対のところに、現世と来世の生における悲惨と害悪が存在する。

神のメッセージが存在しなければ、現世における生にとり何が益で何が害かの詳細について、人知が導きを得ることも無かっただろう。Among the greatest favours of アッラーのご好意のうち最も偉大なるものは、かれがしもべたちに対し使徒たちを遣わしてかれの書物を啓示し、正しき道を示したもうことである。これが無ければ人間は家畜か、あるいはそれよりもなお悪いものであっただろう。それゆえアッラーのメッセージを受け入れてその上に堅固に立つ者は、誰であれあらゆる被創造物のうち最も高きにある者である。だがこれを拒否して逸れる者は、誰であれあらゆる創造物のうち最も低きにある者であり、犬や豚、もしくはそれよりも更に低俗な生きものにも劣る状態にある者である。地上に住まう者ならば、このメッセージがもたらす影響を受けること無しに生きることは不可能であり、 それは彼らの上に掲げられている。メッセージのもたらす影響が地上から消滅し、その導きのしるしも失われるとき、それはアッラーが天地を取り壊し復活をもたらすときである。

また地上の住人たちがメッセージを必要としているのは、太陽や月、空気や雨を必要としているのとは異なり、また自らの魂や光を見るための目を必要としているのとも異なっている。またそれは体が、食べ物や飲み物を必要としているのとも異なる。むしろ使徒に対する必要性は、それら全てやそれ以外に考えられたり思いついたりするもの全てよりも更に大きいのである。ことアッラーの訓戒と禁令に関しては、使徒たちはアッラーとかれの被創造物の間の仲介者である。彼らはかれとそのしもべたちの間を行き来する。彼らのうち最後の者、彼らの先導者でありアッラーにとり最も愛すべき者がムハンマドである。アッラーは彼を人類と、またあらゆる存在に対する慈悲として遣わしたもう。かれは彼をして正しき道を歩む信者たちへの確証とし、またあらゆる被創造物への確証としたもう。かれはそのしもべたちに彼に従い、彼を愛し、尊び、敬うよう命じ、また彼にはあらゆる義務を果たすよう命じたもう。アッラーはその他全ての預言者たちと使徒たちに、(もしも彼に出会うか、彼の言葉を聞いたなら)彼を信じて従うよう誓約と契約を課したもう。かれはまた彼らに対し、彼らを信じて従う者たちにも同じ誓約を課すよう命じたもう。アッラーは彼を、時の敷居に遣わしたもう。かれは彼を伴って多くの者を過ちから導き、多くの者を無知から救い、メッセージを通じて多くの者の見えぬ目や聞こえぬ耳、また閉ざされた心を開きたもう。メッセージにより暗闇に閉ざされた大地を明るく照らし、離ればなれになっていた心に絆をもたらしたもう。かれは使徒を伴って歪んだ信仰を正し、彼を通じて輝ける道を示したもう。アッラーは彼の心を開き、彼の重荷を取り除き、かれを誉れ高き者とし、彼に逆らう者にとっての屈辱と汚名の因としたもう。以前に遣わされた使徒たちの成功が失われた後に彼を遣わし、以前に啓示された書物の影響を消し去りたもう。御言葉がねじ曲げられ法が変更されるとき、あらゆる人々が勝手きままな不正に耽るとき、アッラーとしもべたちの間について、彼ら自身の不正な言葉と欲望に基づいて取り決めるとき、そのときこそアッラーは彼を通じて人類を導き、彼を通じて正しき道を示し、彼を通じて人々を暗闇から光の中へ連れ出し、彼を通じて成功に値する者と罪人の区別を示したもう。彼の導きに従う者は誰であれ正しく導かれ、またかれの道から逸れる者は誰であれ過誤に陥り、ただ自らを損ねるであろう。彼の上にアッラーの平安と祝福あれ、また彼以外の全ての使徒たちと預言者たちの上にも。」(注:Ibn Taymiyyah著Qaa‘idah fee wujoobil I‘tisaam bir-risaalah, Al-Fataawaa 19  p.99-102参照)

ここで人間におけるメッセージの必要性について、以下の通り要約する:

1. 人間は依存する生きものであり、彼がその主かつ創造者について知ることは避け得ぬ必然である。彼に対してかれが何を欲し、また何のために彼を創ったのかを知らねばならない。しかしながらそれらについて人間は、預言者たちと使徒たちを知り、彼らの導きと光を知ること無しに独自に知ることは不可能である。

2. 人間は魂と体の組み合わせから成り立つ。食べ物や飲み物ならば何であれ体の滋養となる。だが魂の滋養は、それを創りたもう唯一の主によって定められたもののみである。その滋養とは、真の宗教と正しき行いである。そこで真の宗教を伝え、正しき行いへと導くのが預言者たちと使徒たちである。

3. 人間の本性は宗教的であり、それゆえに宗教を必要とする。宗教とは実践するものであり、それゆえ真実の宗教でなければならない。そして真実の宗教を知るには、そして真の宗教を知るには、預言者たちと使徒たちを信じ、また彼らがもたらした全てを信じる他に方法はない。

4. 人間には現世におけるアッラーのお喜びと、また来世におけるかれの楽園と幸福に至る道を知る必要がある。そして預言者たちと使徒たちを除いては、この道へと導ける者は皆無である。

5. 人間は弱さの中にあり、また多くの敵が彼を待ち受けている。悪魔は過ちを犯させようとし、悪の仲間たちは悪しきことを正しく見せかけ、そして彼自身の本性も悪へと傾きがちである。敵による悪しき策略からの守護を必要とするとき、

預言者たちと使徒たちが人の導きとなって明白な理解をもたらす。

6. 人間の本性は社会的であり、彼は人々に出会って関係を築き上げる。それゆえに人は正義と平等を人々の間に成立させ得る法を必要とする。それ無しには人間の生活は、ジャングル同様になってしまう。またその法はあらゆる者の権利を過不足なく保護するものでなくてはならない。このような完璧な法は、使徒たちと預言者たちの他に誰一人としてもたらすことは出来ない。

7. 人間には何がやすらぎと心の平安をもたらし、真の幸福へと導くのかを知る必要がある。これこそ預言者たちと使徒たちが導こうとしているものである。本章では、被創造物が何ゆえに預言者たちと使徒たちを必要としているのかを論じた。次章においては終末における復活と、それを証明する証拠について論じる。

 最後の復活

あらゆる人は、死が回避不可能であることを良く知っている。だが死後の運命についてはどうだろうか?幸福だろうか、それとも不幸だろうか?世界じゅうの多くの人々や民族が死後に復活し、あらゆる行為について釈明を求められ、良い行いには良い報奨が、また悪い行いには罰が加えられると信じている。(注:Al-Jawaabus-Saheeh  Vol. 4  p. 96参照)この問題すなわち復活と精算については、確固たる理由と神の法によって証明されている。それは以下三点の基本に基づいている:

1. 主の完全なる知識による確証。主に称賛あれ。

2. 主の完全なる全能による確証。

3. 主の完全なる知恵による確証。(注:Al-Fawaaid by Ibn  al-Qayyim  p. 6-7参照)

最後の復活に関する文脈的・論理的証拠は数多く存在するが、そのうちのいくつかは以下の通りである:

1.  死者の復活についての確証は、天地の創造からも導き出される。アッラーは言われる、

かれらは、天と地を創造なされ、その創造に疲れることもないアッラーが、死者を甦らせることくらい、できるとは思わないのか。いや、かれは凡てのことに全能であられる。(砂丘章 46:33)

かれはまたこうも言われる、

天と地を創造なされたかれが、これに類するものを創り得ないであろうか。いや、かれは最高の創造者であり、全知であられる。(ヤー・スィーン章 36:81)

2. 確証はアッラーの全能からも導き出される。かれはいかなる前例もなしに、最初から再び創造を成し得たもうであろう。かれはものごとを存在せしめ、またそれよりも偉大なる理由をもってそれらを再び創造することもできる。いと高きアッラーは言われる、

かれこそは先ず創造を始め、それからそれを繰り返される御方。それは、かれにおいてはとてもた易いことである。かれは偉力ならびなく英明であられる。(ビザンチン章 30:27)

かれはまたこうも言われる、

また彼(人間)は、われに準えるものを引合いに出して、自分の創造を忘れ、言う。「誰が、朽ち果てた骨を生き返らせましょうか。」言ってやるがいい。「最初に御創りになった方が、かれらを生き返らせる。かれは凡ての被造物を知り尽くしておられる。(ヤー・スィーン章 36:78-79)

3. かれは人間を最も良い姿に創り、完全かつ完璧に整えたもう。かれは手足と力、性質を授け、そこに肉と骨、血管と神経を与えたもう。さらに方法と手段、道具、科学、願望と労働を与えたもう。それら全ての中に、かれが死者を復活させうる大いなる証拠が見出せる。

4. かれが死者を復活させうることの確証は、来世からも導き出せる。かれにより、現世においても死者は復活する。アッラーがかれの使徒たちに啓示したもう神の書物において、これに関する物語が語られている。アッラーのお許しを得てイブラーヒームやイーサーといった預言者たち − 彼らの上に平安あれ — が、その手をもって死者を復活させた例が存在する。

5. かれが死者を復活させうることの確証は、集合と復活の日とも似通った様々な機会を通じて導き出せる。以下はその例である:

a  アッラーは人間を、体中にまき散らされた精液 — 人間の全身が性行為を楽しむのもこの理由による — の一滴から創りたもう。アッラーはこの一滴を全身のあらゆる部分から集めて子宮へ送り、そこで人間を創りたもう。散らばっていたものをひとつに集め、それにより人間を創りたもう主にとり、死によって再び散らばったものをひとつに集め、再び創ることの妨げとなるものがあるだろうか。アッラーは言われる、

あなたがたは、あなたがたの射出するもの(精液)に就いて考えたか。それを創ったのはあなたがたなのか、それともわれがその創造者であるのか。(出来事章 56:58-59)

b どのような種類の植物であれ、種が大地に落ちれば、水と土とがそれをのみこむ。論理的に考えれば、それらは腐って朽ちるだろうと結論できよう。何故なら水も土も、それぞれだけでも種を腐らせるには十分であり、その組み合わせならば尚更だからである。しかし実際には、種は腐ることなく保たれる。湿度が十分に達したとき、種はその殻を破って芽を出すのである。これは完璧な力と完全な知恵を指し示すものではないだろうか? このような全知全能の主に、人間の体の部分を集め、その手足を再び創ることが出来ない理由などあるだろうか?アッラーは言われる、

あなたがたは、あなたがたが耕す(畑の)ことを考えたか。あなたがたがそれ(植物)を育てるのか、それともわれが育てるのか。(出来事章 56:63-64)

またこれと似た句をアッラーは告げたもう、

またあなたは大地が枯れて荒れ果てるのを見よう。だがわれが一度それに雨を降らせると、(生気が)躍動し膨らんで、凡ての植物が雌雄で美しく萌え出る。(巡礼者章 22:5)

6. 全能、全知、あらゆる知恵を有する創造者の意図は、たわむれに創造してそれらを放置することからは程遠い。かれは言われる、

われは天と地、そしてその間にあるものを、戯らに創らなかった。それは信仰のない者の憶測である。だが(いずれ地獄の)火を味わう信仰のない者こそ哀れである。 (サード章 38:27)

アッラーは被創造物を大いなる知恵といと高き目的のために創造したもう。かれは言われる、

ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。 (撒き散らす者章 51:56)

したがってこのような全知の主に従う者と従わない者が、同じであるとは言えない。かれは言われる、

われが信仰して善行に勤しむ者と、地上で悪を行う者と同じに扱うことがあろうか。われが(悪魔に対し)身を守る者と、邪悪の者とを同じに扱うであろうか。(サード章 38:28)

それ故にかれは完全なる知恵と偉大なる力をもって復活の日に被創造物を甦らせ、全ての人間をその行為に基づいて報い、善を為した者には報奨を、また悪を為した者には罰を与えるのである。アッラーは言われる、

あなたがたは皆一緒にアッラーの御許に帰る。アッラーの約束は真実である。本当にかれは創造を始め、そしてそれを繰り返される。これは信仰して善行をした 者に、公正に報われるためである。だがかれを信仰しない者には、煮えたった飲物と、痛ましい懲罰がある。これはかれらが不信心であったためである。 (ユーヌス章 10:4)

(注:以上についてはIbn al-Qayyim著 Al-Fawaaid p. 6, 9ならびにAr-Raazee著 At-Tafseer Al-Kabeer Vol. 2, p. 113-116.参照のこと。)

終末の日(復活の日)への信仰がもたらす個人と社会への大いなる影響と、その例について:

1. その日の報奨を求めて、人間はアッラーに服従するための努力をするようになる。またその日の懲罰を恐れて、人間はかれへの不服従を避けるようになる。

2. 終末の日を信じることは、信仰者たちに慰めをもたらす。現世における喜びを失っても、来世の報奨という希望が持てるからである。

3. 終末の日を信じることで人間は死後の運命を知り、また彼の行いが善であれば報奨が与えられ、悪であれば罰せられることを知る。彼は自分が精算させられることを知る。現世において彼が不正を働いた人々による復讐がなされる。彼によって権利を不当に扱われた人々、彼に圧迫された人々が彼から奪い返す。

4.  終末の日を信じることで、平和と人類の安全が実現される。人類の安全が脅かされ、終わりなき戦争が荒れ狂う不安定なこの現代においては尚更である。何故ならアッラーと終末の日を信じることにより、人間は私的にも公的にも他人に悪を為すことを慎むようになるからである。その信仰は、自らの心からさえも悪しき意図を退けさせるのである。

5. 終末の日を信じることは他人に不正を働いたり、他人の権利を侵害したりすることを思いとどまらせる。もしも人類が終末の日を信じるなら、あらゆる者が互いに不正を為すことから保護され、またあらゆる者の権利が保護されるようになる。

6. 終末の日を信じることで人間は現世の住処について、それが生におけるひとつの段階に過ぎず、またほんとうの生でも無いことを知る。

本章の終わりに「賭けに勝利する( Win Bet )」なる言葉を引用しよう。かつて教会に従事する者であったアメリカ人のキリスト教徒がやがてイスラームに改宗し。終末の日の果実を手にした際にこう言ったという。

「今こそ私は、『私は誰か?』『私が欲するのは何か?』『なぜ私はこの世に生まれたのか?』『私の運命とは何か』といった、私の人生を占めていた多くの疑問に対する解答を得たのである。」(注:Ad-Da’awah Magazine No. 1722, 19-9-1420  p. 37参照)

 使徒たちの使命における原則

全ての預言者たちと使徒たちの呼びかけはアッラーとかれの天使たち、かれの書物、かれの使徒たち、終末の日、また良きにつけ悪しきにつけかれの定命を信じるといった普遍的な原則において共通している。またいかなる同位者も配することなくアッラーのみを崇拝し、かれの道に従って逸れることのないようにといった訓令や、公私にわたるあらゆる悪行、不正な抑圧、アッラーに同位者を配して崇拝すること、あるいは偶像崇拝といった四つの禁令においても同様である。また彼らはアッラーには配偶者も子もなく、何であれかれについて真実でないことを語ることは禁じられているとみなす点においても一致している。嬰児の殺害および不当な殺害、浪費、孤児の財を取り上げることなどを禁じている点も同様である。約束を実行すること、目方を正しく量ること、両親に孝行することを勧める点においても彼らは一致している。人々の間において正義をなし、言動において正直にふるまい、浪費と傲慢を禁じたのと同様に、人々の財を不当に濫用したり消費したりすることを禁じる。(注:これらの普遍的な原則についてはバカラ章2:285-286および家畜章6:151,153、高壁章7:33、そして夜の旅章17:23,27において示されている。)

イブン・アル=カイイムは次のように語っている。

(注:ムハンマド・ビン・アビー・バクル・ビン・アイユーブ・アッ=ザリーイー。ヒジュラ暦691年に生まれ、751年に没している。偉大なイスラーム学者の一人であり、多くの価値ある書物を著した。)

「たとえ互いに異なっていたとしても、あらゆる神の法はその原則において一致している。これらの法の長所とは、それが人間の知性に深く根差している点にある。もしもそうした法でなければ知恵とは呼べず、不利益と無慈悲をもたらしたことだろう。従ってこれ以外の方法でもたらされることはあり得なかったのである。アッラーは言われる、

もし真理が、かれらの欲張りに相応しいものなら、天地とその間の凡てのものは、(混乱し)退廃してしまったであろう。そうではない。われはかれらへの訓戒を授けたが、かれらは訓戒から背き去ったのである。 (信者たち章 23-71)

賢き者であれば最も優れた裁き手たるアッラーの法が、現在のかたちとは異なるかたちで下されることが許されるなどとは考え得ないのである。」 (注:Miftaahu daaris-sa‘aadah Vol. 2, p. 383ならびに Al-Jawaabus-saheeh Vol. 4 p. 322、またAs-Safaareenee著 Lawaami‘ul-anwaar by Vol. 2, p. 263参照のこと。)

あらゆる預言者たちがひとつの宗教を実践していたのもこうした理由からであり、それはアッラーによって確証されている。かれは言われる、

あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。本当にあなたがたのこのウンマは、唯一の共同体である。われはあなたがたの主である。われを畏れよ。(信者たち章 23:51-52)

かれはまたこうも言われる、

かれがあなたに定められる教えは、ヌーフに命じられたものと同じものである。われはそれをあなたに啓示し、またそれを、イブラーヒーム、ムーサー、イー サーに対しても(同様に)命じた。「その教えを打ち立て、その間に分派を作ってはならない。」 (集合章 42:13)

宗教の役割とは人類に対し、彼らが創造された目的を達成させることである。すなわち彼らの主に同位者を配さず、ただかれのみを崇拝することである。(注:Majmoo‘ Fataawaa Vol. 2, p.6参照)かれは彼らが果たさねばならない義務を定め、またそれを保証したもう。かれはまた良きものを得るための手段を与えたもう。それにより人間は主のお喜びと幸福を現世においても来世においても成就する。神の道に従うことは人間を破滅に導いたり、魂とそれを取り巻く自然の間に対立をもたらすような死に至る病を引き起すものではない。

全ての使徒たちが神の宗教へと招いている。人間に対し信仰という原理と、何を信じるべきかを示し、 また人生において従うべき法を示している。それゆえにトーラーは信仰であると同時に、信じる者たちが従うべき法でもあり、かつ彼らの間を裁くものでもあったのである。アッラーは言われる、

誠にわれは、導きとして光明のある律法を、(ム-サーに)下した。それで(アッラーに)服従、帰依した預言者たちは、これによってユダヤ人を裁いた。聖職者たちや律法学者たちも(裁いた)。 (食卓章 5:44)

それからマスィーフが福音を携えて出現した。そこには導きと光、先行するトーラーの確証が含まれていた。アッラーは言われる、

われはかれらの足跡を踏ませて、マルヤムの子イーサーを遣わし、かれ以前(に下した)律法の中にあるものを確証するために、導きと光明のある、福音をかれに授けた。 (食卓章 5:46)

その上でムハンマドが最後の神の法を携えて出現した。以前に下された法について証言し、またそれらを廃することによって宗教を完成させるためである。アッラーは言われる、

われは真理によって、あなたがたに啓典を下した。それは以前にある啓典を確証し、守るためである。それでアッラーが下されるものによって、かれらの間を裁け。あなたに与えられた真理に基づき、かれらの私慾に従ってはならない。 (食卓章 5:48)

アッラーはまたムハンマドと彼と共にある信仰者たちが、かれが彼以前に遣わした全ての預言者たちを信じることについても説きたもう。かれは言われる、

使徒は、主から下されたものを信じる、信者たちもまた同じである。(かれらは)皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。わたしたちは、使徒た ちの誰にも差別をつけない(と言う)。また、かれらは(祈って)言う。「わたしたちは、(教えを)聞き、服従します。主よ、あなたの御赦しを願います。 (わたしたちの)帰り所はあなたの御許であります。」 (雌牛章 2:285)

 永遠のメッセージ

既に述べた通り、ユダヤ教、キリスト教、マズダ教やザラスシュトラ教団の有り様は、宗教が腐敗し始めたときに、政治的・社会的にも、また経済条件も併せて腐敗していた西暦6世紀における人間の状況を明らかにするものである。(注:本書 「既存宗教の概況」の項を参照)血なまぐさい戦争が広範囲に渡ったとき、独裁が誕生し、人類は全くの暗闇の中で生きるようになった。こうした状態がもたらす不信と無知が、心の暗闇へとつながった。道徳は後退し、名誉と権利が侵害され、白昼の害悪が陸と海における風潮となった。状況はひどいものであり、誰であれ賢明な者ならば、考えればすぐに理解できたであろう。当時の人類は、後戻りすることも出来ない深い穴に陥って死に瀕していた。彼らは、道を照らす導きの光となる預言者の松明を掲げ、彼らを正しき道へと案内する偉大なる改革者たちによってアッラーに救済されること無き人々だったのである。

そのときアッラーは、預言者の永遠の光が誕生するのは偉大なる館を擁するマッカをおいて他ならぬことを裁可したのである。マッカは、多神教、無知、不正と独裁についてはその他の民の環境と同様であったが、以下の通り、その他の地域とは区別される多くの美点を備えていた:

1. その地は、ギリシア、ローマ、あるいはインド哲学といった瑕瑾による影響を受けることなく純粋に保たれていた。土地の人々は、深く根を下ろした雄弁さや、強い心と際立った気質を楽しんだ。

2. その地は、世界の中心にあった。ヨーロッパ、アジア、アフリカ大陸の中央にあり、それは永遠のメッセージを瞬時に広め、短期間でそれらの大陸に届けるためにも重要な要因であった。

3. その地は、安全が保証されていた。アブラハー(アビシニア王)が侵略しようとした際にも、アッラーはこの地を保護したもう。近隣のローマやペルシア帝国も、この地を征服することはできなかった。南においても北においても、商業までもが保護されていた。これらは、高貴なる預言者の出現の前触れだったのである。以下の御言葉は、この都の住民に対するアッラーの偉大なるご好意を思い起こさせるものである。

われは、かれらのために安全な聖域を設け、われからの糧として凡ての果実をそこに集めたではないか。(物語章 28:57)

砂漠という環境は、異なる価値観の間においても寛大かつ友好的で、名誉を真剣に重んじ、雄弁でその名を知られ、巧みな話術と尊敬すべき美点によってその名誉と地位を占有していたクライシュ族の、大いに称賛に値する数々の特徴を保ち続けるには最適の場所であった。アッラーは、全ての預言者たち、使徒たちに連なる最後の預言者としてムハンマドを選びたもう。西暦六世紀、おそらく570年に彼はマッカで誕生し、孤児として育った。未だ胎児であった時分に父が亡くなったためである。彼が六歳のころ、母が、続いて父方の祖父が亡くなった。そのため彼は伯父の養育を受け、孤児として成長したのである。彼の上には並外れた徴候が輝いていた。彼の習慣や振る舞い、その特徴は、親族のそれとは異なっていた。話すときは決して嘘をつかず、また決して誰かを傷つけることもなかった。その正直さ、純正さや誠実さによって、彼の評判はたちまち高まった。身内の者たちの多くが、価値ある財産を彼に託すようになった。彼はそれを、まるで自らの命か財であるかのように大切に守り通した。そのため、人々は彼を「アミーン(誠実な者)」の名で呼ぶようになった。

成年に達した頃の彼は、慎み深く控えめで、人前では決して肌を見せることはなかった。純粋無垢かつ敬虔だった彼は、人々が偶像を崇拝し、酒を飲み、罪無きものの血を流すのを見て危険を感じ取っていた。彼は自分にとって好ましく、また満足できる行いにおいてのみ彼らと関わり、彼らが恥知らずな行為や罪にふけっているときは、彼らから離れるようにしていた。孤児や未亡人たちを助け、飢えている者には食事を与えた。

四十歳になった頃、彼は深刻に身動きのとれない状態に陥っていた。彼の周囲を取り巻く腐敗に困惑し、主を崇拝するためにも隠遁を選び取るようになり、正しき道への導きを求めるようになったのである。こうした状態にあったときに、天使のうち一人が、主の啓示と共に彼の許へ遣わされ、この宗教を人類に伝えるよう命じたのである。それはアッラーのみを崇拝し、かれ以外への崇拝を避けるようにとの呼びかけであった。それ以来、定めと規律の啓示が、幾日、幾年にも渡って下され、それはアッラーが人類のためにこの宗教を完成し、彼らの上にそのご好意を成就するまで続いたのである。アッラーの使徒がその任務を終えたとき、アッラーは彼を召したもう。彼は六十三年でその生涯を終えた。預言者となる以前は四十年の、預言者かつ使徒としては二十三年の一生であった。

預言者たちの置かれた条件について熟考し、彼らの歴史を研究する者ならば誰であれ、ムハンマドが成立せしめた預言者性以上のそれを成立し得た預言者は誰ひとりとしていないことを知るだろう。ムーサーやイーサーがどのように預言者性を発揮したかについて考えれば、それは成功をおさめたと言えよう。だがムハンマドの預言者性における成功はそれよりもはるかに偉大であり、力強く新鮮である。起こされた奇跡についてもこれと同様、ムハンマドの上に起こされた奇跡ははるかに偉大なものである。彼の奇跡には数多くあるが、中でも最も偉大なのは音と字によって不断に届けられた栄光のクルアーンである。(注:本書におけるクルアーンに関する項を参照)

預言者ムーサーとイーサーがもたらしたものと、預言者ムハンマドがもたらしたものについて比較する者ならば誰であれ、彼らの堅固なる信仰と賢明なる訓戒、そして有益なる知恵は同じひとつのランプから発せられたものであることを、確信をもって知るだろう。そのランプこそは預言者性である。預言者たちに従う者とムハンマドに従う者の置かれた条件を比較する者ならば誰であれ、その他全ての預言者たちに従う者たちよりも、彼らよりも後に来た者の持つ影響力という意味において、ムハンマドに従う者は最も優れていることを確信をもって知るだろう。 彼らはイスラームという唯一神信仰を広め、正義を掲げ、弱者や困窮者たちには慈悲を示した。(注:Majmoo ‘al-Fatwa Vol.4 p.201202ならびにSama’wal Al-Magribi著”Ifhaamul yahood” p.58-59参照のこと)

以上に加え、更なるムハンマドの預言者性に関する証拠が求められるならば、 ‘Alee bin Rabban at-Tabaree という人物がかつてキリスト教徒であったときに見出した確証と徴候を以下に記す。これらの確証により、彼はのちにイスラームに改宗した:

1. 使徒たちはのみを崇拝し、またかれ以外への崇拝を避けるよう呼びかける。この点において彼はその他の預言者たちとも一致している。

2. 彼にはアッラーの預言者たちのみに示せる明白な徴候を示している。

3. 彼は将来を予見し、また出来事は彼が予見した通りに起こった。

4. 彼は世界中の様々な出来事を予見し、また世界には彼が予見した通りの出来事が起こった。

5. ムハンマドによってもたらされた書物クルアーンは預言者性の徴候である。それは最も雄弁なる書物である。読むことも書くことも出来なかった文盲の男に啓示され、なおかつ雄弁家たちに対してそれと似たスーラのひとつを作ってみよと挑戦をつきつける。(注:スーラとは語義的には「段」を意味する。イスラームにおいては、含まれる意味において関連する句もそうでないものも併せて群としてまとめた、栄光のクルアーンの一部分を指す。翻訳者たちの幾人かはその語を関連する問題と議論による連なりとみなして「章」と訳す。)それはこの書物ならびに正しい信仰の護持と、最も優れた共同体に対する神の完全なる定めを、アッラーが保証しているという事実を示すものである。

6. 彼こそは預言者たちの封印であり、もしも彼が遣わされなかったならば、その到来によって吉報をもたらした過去の預言者たちは虚偽と化していただろう。

7. 彼ら全ての預言者たちが、はるか昔から彼の到来を予見していた。 彼らは彼の使命について、また彼の生地と、その他の民や王たちが彼と彼の民に服従するであろうことを説いた。 彼らはまた、彼がその宗教を広めるであろうことについても言及した。

8. 彼に戦いを挑んだ者たちに対する彼の勝利は、彼の預言者性の徴候である。アッラーの使徒であるとの虚偽を主張しながら、なおアッラーによって勝利の力と権威、敵に対する優位を得て彼のメッセージを広め、多くの信者を獲得することなど不可能だからである。これらは全て真実の預言者の手によってのみ成し得ることである。

9. 彼による宗教儀礼と崇拝行為には品位と誠実さ、称賛に値する特徴と作法、また規律がある。これらは全て預言者でなければ見出せないことである。

これらの証拠に言及した上で、導かれしこの人物は次のように述べている。「これらは輝ける徴候であり十分な証明である。これらを備えた者は預言者たちであるに違いなく、こうした人物は必ずや目的を達成し成功するに違いない。彼に対する信頼は義務である。これらの証拠を小判で否定する者は誰であれ、その努力は無駄に潰え、現世においても来世にも損失を蒙るだろう。」(注:‘Alee bin Rabban At-Tabaranee著“Ad-deen wad-dawla fee ithbaati nubuwwati Muhammad” p. 47. ならびにAl-Qurtubee 著 “Al-Islaam” p. 362参照のこと。)

At the end of this section本章を締めくくるにあたり、 以下に二つの証言を記す。ひとつは預言者ムハンマドと同時代のローマ王のもの、もうひとつは現代のキリスト教伝道者ジョン・セントによるものである。

ひとつめの証言:ヘラクレイオスによる

アブー・スフヤーンがローマ王に召喚された時のことについて、アル=ブハーリーが次のように伝えている。アブー・スフヤーンが言うには、交易のため数人のクライシュ族の者たちと共にシリアに出かけていた時のことである。ヘライクレイオスが彼に使者を差し向けた。当時はアッラーの使徒とアブー・スフヤーンおよびクライシュ族の間に停戦の協定が結ばれていた。彼らはエリヤ(注:シリアの都市名)でヘラクレイオスと面会した。ヘラクレイオスは彼らを自らの公邸に招き、ローマの貴人たちも同席していた。彼らと通訳を招いたのも彼であった。

それから彼はアブー・スフヤーンとその仲間たちに尋ねた。「あなた方のうち、預言者と自称する男に最も近しい者は誰か。」

アブー・スフヤーンは言った、「血筋においては、最も近しいのは私である。」

そこでヘラクレイオスは彼の従者に告げた、「彼を私のそばへ連れて来い。彼の仲間たちは、彼の後ろに下がらせるように。」それから彼は通訳に告げた、「彼らに告げよ。『私はこの者(アブー・スフヤーン)に、預言者を自称する男について尋ねる。もし彼が嘘をついたなら、あなた方は反論せよ』と。」

アブー・スフヤーンは言った。「アッラーにかけて!私の名において嘘が記録されることを恥とも思わないものならば、私は彼について嘘を言ったことだろう。彼の私に対する最初の質問は、彼の血筋についてであった。」アブー・スフヤーンは「彼は私たちの中でも、高貴な血筋の者である」と答えた。

それから彼は尋ねた、「彼以前にも、これと同じことを口にした者はあるか?」

私は答えた、「否。」

彼は言った、「彼の祖先には王であった者はいるか?」

私は答えた、「否。」

彼は言った、「彼の信者は高貴な人々か、あるいは弱き人々か?」

私は答えた、「弱き人々である。」

彼は言った、「彼らは増えているか、あるいは減っているか?」

私は答えた、「増えている。」

彼は言った、「彼の宗教を受け入れた後で不快を示し、信仰を捨てた者はいるか?」

私は答えた、「否。」

彼は言った、「彼は裏切るか?」

私は答えた、「否。だが今のところ我らと彼とは停戦の協定にあり、彼が何をするかは、我らには分からないことである。」

加えてアブー・スフヤーンは、「私が彼について言えるのはこれだけである」と言った。

ヘラクレイオスは更に尋ねた、「彼と戦ったことはあるか?」

私は答えた、「もちろん!」

彼は言った、「彼の戦いはどうであったか?」

私は答えた、「引き分けである。時に彼が勝ち、時に我らが勝つ。」

彼は言った、「彼の戦いはどうであったか?」

私は答えた、「彼はあなたに、何をせよと命じているか?」

私は言った、「彼は言う、『同位者を配することなく神のみを崇拝せよ、それ以外の、あなたの父があなたに命じた崇拝を棄てよ』と。彼は我らに礼拝を命じ、正直と潔白、親類縁者への寛大を命ずる。」

それからヘラクレイオスは通訳に命じた。「彼に伝えよ。

私は彼の血筋について尋ね、あなたは彼の血筋があなた方の中でも高貴なものであると答えた。それは使徒たちの徴候である。彼らは、彼らの中でも高貴な血筋から遣わされる。

私は彼以前にも、これと同じことを口にした者はあるかと尋ね、あなたは否と答えた。もし彼以前にもこれと同じことを口にした者があったなら、私は言っていただろう、彼は他の者が言っていることを繰り返しているだけだと。

私は彼の祖先には王であった者はいるかと尋ね、あなたは否と答えた。もし彼の祖先に王であった者がいたなら、私は言っていただろう、彼は父の王国を欲しているだけだと。

私は彼が嘘をつく疑いがあるかを尋ね、あなたは否と答えた。それで私は知った、彼には、神について人々に嘘をつくことはできないだろうと。

私は彼の信者は高貴な人々か、あるいは弱き人々かと尋ね、あなたは彼の信者は弱き人々であると答えた。然り、彼らこそは使徒たちに従う者である。

私は彼らは増えているか、あるいは減っているかと尋ね、あなたは増えていると答えた。信仰とはそのようにして完成するものである。

私は彼の宗教を受け入れた後で不快を示し、信仰を捨てた者はいるかと尋ね、あなたは否と答えた。然り、信仰とはそのようにして心に定まるものである。

私は彼は裏切るかと尋ね、あなたは否と答えた。然り、それが使徒たちである。彼らは裏切らない。

私は彼はあなたに、何をせよと命じているかと尋ね、あなたは彼が同位者を配することなく神のみを崇拝せよと命じ、礼拝を命じ、正直と潔白、親類縁者への寛大を命ずると答えた。彼はあなたに偶像への崇拝を禁じている。あなたが私に言ったことが真実ならば、彼は私の立つ地位に立つ者であろう。そのような預言者の出現を私は知っていたが、それがあなた方の中から生じるとは思わなかった。もし彼に会えると知っていたなら、私は何としてでも会っていただろう。もし彼と共にあれるなら、私は彼の足を洗っていただろう。」

それから彼はアッラーの使徒がディフヤに託してボスラの統治者に送ったという書簡について聞き及んだ。彼はヘラクレイオスに書簡を送り、彼はそれを読んだ。以下はその内容である:

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。 アッラーの使徒ムハンマドからローマ統治者ヘラクレイオスへ。導きに従う者の上に平安あれ。私はあなたを、イスラームが招くところに招くものである。イスラームを受け入れよ、あなたは守護されよう。アッラーはあなたの報奨を倍加されよう。しかしあなたが背き去るならば、あなたはヤーリスィーンの罪を負うであろう。

「 おお、書記たちよ!我らとあなたがたの間でのみ交わされる言葉について思い起こせ。すなわり我らはアッラーのみに仕え、かれに同位者を配さず、また我らのうち誰ひとりとしてアッラーの他を主とする者はない。彼らが背を向けたならば、言え、『我らはムスリムであると証言する』と。」(注:「啓示の始まりの書」より、アル=ブハーリーの言葉)

 

 ふたつめの証言

現代のキリスト教伝道者であるジョン・セントは以下のように述べている。「私はイスラームについて読み続け、それが個人と社会に資するものであり、また平等と一神教に基づいた社会に正義を成立させるものであると知り、気付けば私は自らの全感覚と精神においてイスラームを受け入れていた。かれに称賛あれ − 私はアッラーに、イスラームの宣教者になり、世界の至るところにおける伝道者になることを誓ったのである。」

この人物はキリスト教を学び、それについて熟知したのちにこのような確信を得るに至ったのである。彼はそれが人生における様々な疑問に解答を差し出すことが出来ないということを知った。それで彼は疑いを持つようになった。のちに彼は共産主義と仏教を学習したが、彼の欲していたものを得ることは出来なかった。そして最後にイスラームを深く学び、これを信じるに至り、またこれに招く者となったのである。(注:Al-Mubashshir At-Taraazee Al-Husaynee 著 ”Ad-Deen Al-Fitree Al-Abadee” 2  p. 319参照)

(注: 本章についての詳細はMubaarakpuri著 “Ar-Raheequl-Makhtoom”参照のこと)

 預言者の封印

真実の預言者性について、またムハンマドの預言者性ならびにその証拠と徴候、確証については既に論じてきた通り明白である。ここで預言者の封印について論じる前に、アッラーは以下に述べるような理由に基づいて使徒を遣わしたのでは無いということを確認しておく必要がある:

1. 預言者のメッセージは特定の人々に固有のものであり、ここで言及される使徒とは自らの近隣にあたる人々のために彼のメッセージを伝えた。またアッラーは、その他の人々にも、彼らに適した異なるメッセージを授けて遣わした。

2. アッラーが人々のために彼らの宗教を改革する別の預言者を遣わした場合、以前の預言者のメッセージは消滅する。

3. 以前の預言者の法が特定の時代に限定されるものであり、それ以後の時代にふさわしいものではない。そのためアッラーは別の時代と場所にふさわしい、別の預言者と別の法を遣わす。しかしながらアッラーの知恵は、ムハンマドは全ての時代と場所にふさわしく、また変更や追加の手から守護されたメッセージと共に全人類に遣わすことを必要とした。それによりかれの生きたメッセージだけが残り、それにより人々は生き、それは変更や追加といったいかなる汚れからも純粋のままに保たれる。アッラーがこれをもって全てのメッセージの封印としたのもこの理由による。(注:Al-Aqeedah At-Tahaawiyya p. 156ならびにLawaami‘ul anwaar,  2  p. 269, 277、またMabaadi’ul-Islaam  p. 64参照のこと。)

以上を踏まえて、アッラーがムハンマドを全ての預言者たちの封印として識別したもうのは、彼の後には預言者は出現しないという意味においてである。 これはアッラーが彼をもって全ての啓示を完成し、彼をもって全ての法を完了し、彼をもってその構築を終え、また彼の預言者性の中にマスィーフ・イーサーの預言を成就したということを指す。曰く、

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(マタイによる福音書 21:42)

イブラーヒーム・ハリール師 − 彼は改宗ムスリムである − は、この文言はアッラーの使徒の言葉に相当するものあると看做している。「私や私以前に遣わされたアッラーの使徒の模範となるべき人物とは、館を完成させる者のことである。手つかずのままに残されていた四隅に煉瓦を置く者のことである。人々は館について、何故この煉瓦をそのままにしておくのかと問う。すると彼は答える、『私は煉瓦であり、預言者たちの封印である』、と。」 (注:Ibraheem Khaleel Ahmad 著 “Muhammad in the Torah, Gospel and the Qur’aan” p. 73. 参照のこと。このハディースはアル=ブハーリーならびにムスリムによる)

これこそはアッラーがムハンマドに書物を授け、それ以前の全ての書物の証言者として、かつそれらを廃止する者として遣わされた理由である。それはかれがムハンマドの法をもって、以前の法を廃止したもう通りである。アッラーはかれのメッセージの護持を保証し、事実それは成功のうちに受け継がれている。クルアーンもまた成功のうちに受け継がれ続けてきた。この宗教における教えの実践も、崇拝の行為も、スンナも規律も、全ては途絶えることなく継承され続けている。

預言者の伝記と彼のスンナについて読んだ者ならば誰であれ、その同胞たちがいついかなる時であってもムハンマドの人間性、言葉および行為に倣ったということを知るだろう。彼らは彼の主に対する崇拝の行為を、かれの目的に沿う努力を、彼がどのようにかれを思い、どのようにかれの赦しを求めたかを継承した。彼の優しさや勇気、同胞たちや彼を訪れる者たちとの関わり方について継承し、彼の喜びや悲しみ、旅と逗留、 食べ方や飲み方、どのような衣服を着たか、またどのように目覚めどのように眠ったかなどについても継承したのである。これを知ればこの宗教が、確かにアッラーの護持を保証されたものであることを知るだろう。また彼が、全ての預言者たちと使徒たちの封印であるということをも知るだろう。 for アッラー has told us that this Messenger is the last of all全ての預言者たちの中でも、この使徒こそは最後の者であるとアッラーが告げたもう通りである。かれは言われる、

ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。(部族連合章33:40)

ムハンマドもまた彼自身について以下のように告げている。「私は、全ての預言者たちの封印として全人類に遣わされた者である。」(アフマドならびにムスリムによる)

次章においてはイスラームとは何かを定義し、その精髄、根源、その柱と段階について解説する。

 イスラーム:その語の意味

辞書を引けば、イスラームという単語が服従、屈服、降伏、命令、指揮官の指揮と禁止に従い、また指揮官に逆らわないという意味であることを知るだろう。アッラーは、この真の宗教に「イスラーム」と名付けたもう。何故ならこの宗教はかれに対する服従であり、いかなる抵抗もせずにかれの命令に従い、かれへの崇拝の行為を浄化し、かれの御言葉を信じてかれを信仰することだからである。

 イスラームの定義

この宗教は、なぜイスラームと名付けられたのだろうか?例えばイエス・キリストの名をとって名づけられたキリスト教や、開祖ブッダの名をとって名づけられた仏教、またザラスシュトラの名をとって名づけられたゾロアスター教のように、世界中の様々な宗教の信者たちは彼らの宗教を特定の人物や人種に基づいて命名する。またユダヤ教も、ユダヤという民族の中から生じたものである。特定の人物や民族に基づいていないのはイスラームのみである。その名は、イスラームという語彙が意味する格別の特徴を示すものである。名からして、この宗教が存在するにあたって人間には何の役割も持たないこと、また特定の民族に属するものでもないことは明らかである。それは地上のあらゆる人々に、イスラームの特徴をもたらすことを唯一の目的としている。誰であれその性質にイスラームの特徴が現れている人は、古代人であれ現代人であれ、あるいは次代に生まれる人であれムスリムであると言えよう。

 イスラームの真実

この世の全てが一定の規則に従って成立していることは周知の通りである。太陽、月、星々と地球は一定の原理原則に従っており、これに対して揃って抵抗することも、ほんの少し逸れることも出来ない。人間でさえアッラーの法に完全に服従していることは、彼らについて熟考すれば明らかだろう。彼の生命を管理する神の命令なくしては、呼吸もできず、水や食べ物、滋養への必要も、光や熱も感じ取れない。そして彼の全身が、この命令に従っているのである。どの部分も、アッラーがこうと定めたもうこと以外の働きを為し得ない。

人間も、そして世界に存在するあらゆるものも − 宇宙に浮かぶ天体から、地上の最も小さい砂の一粒に至るまで − この包括的な神命に服従している。大権と全能の主による、この大いなる神命から逃れ得るものは何もない。諸天と大地の間に存在するあらゆるものが、いずれもこの神命に服従しているとすれば、それは全世界が、それを創造したもう全能の君主に服従しているということである。この見地においてはイスラームが、全世界の宗教であることは明白である。何故なら既に述べた通りイスラームとは、異議を申し立てること無しに指揮官の指揮と、かれの禁止に対して従順に服従することを意味するからである。太陽、月、そして地球は全てかれに降伏している。空気、水、光、闇、そして熱は全てかれに降伏している。木も石も、動物も、全てかれに降伏している。人間でさえ、自らの主を知らずにかれの存在と御しるしを否定し、かれ以外を崇拝したり、何ものかをかれに並べて崇拝していようとも、その自然においてかれに降伏しているのである。

これらを踏まえた上で人間を見るとき、以下二つの要因が彼の注意を引こうと争っているのが分かるだろう:

1 人間における自然な傾向:アッラーへの服従を好み、かれへの崇拝を愛し、かれに近づくことを求め、アッラーの愛したもう真実や善、正直さを愛し、かれの憎みたもう虚偽や悪、不正を憎む。また金銭や、家族と子供たちに対する愛、食べ物や飲み物、性的充足に対する欲求、またそれらを満たすための肉体的機能を必要とするなど、これらも全て自然な傾向である。

2 自由意志と選択:人間が真実と虚偽を、導きと過ちを、また善と悪を区別するようにと、アッラーは人間に使徒たちを遣わして書物を啓示したもう。確実な知識をもって選択できるようにと、かれは人間に精神力と理解を与えたもう。もしかれが望みたもうなら、人間は真実と導きに至る善の道を選ぶ。だがもし人間がそうと望めば、彼は悪と破滅に至る不吉の道を選ぶだろう。

第一の要因から人間を見た場合、人間はアッラーに服従するために創造され、その他の被創造物と同じように、その服従からはいかなる逸脱も為し得ないように条件づけられているということが分かる。

しかし第二の要因から見た場合、人間は自由であり、自らの欲するところを選ぶ生きものであることが分かる。彼は選んでムスリムにも、不信者にもなるのである・・・「感謝する者(信じる者)になるか、信じない者になるか。」(人間章76:3)

このように、人間には二種類あることが理解できよう:

自らの創造者を知り、かれを主として信じ、またかれのみを神として崇拝し、人生において自発的にかれの法に従う人間。また彼はその主に服従するよう条件づけられており、自らが従う者の定めたもうことから逸脱することは出来ない − このような人間こそムスリムである。彼のイスラームは完璧であり、また彼の知識は堅固である。何故なら彼はアッラーを知っており、使徒たちを遣わしてその知識と学びを力づけたもう自らの創造者と完成者を知っているからである。彼は堅固な理性と正しい主張を有している。彼は自分で考えた結果として、理解と、物事に対する正しい判断という祝福をもたらしたもうアッラーのみを崇拝することを決めたのである。彼の舌はただ真実のみを語る。今の彼は、いと高き唯一の主アッラーのみを信じており、そのかれが、彼に語る力を与えているのである。今後の彼の人生は、真実以外に残るものは何ひとつないかのようになるだろう。何故なら彼は自由意志に基づいてアッラーの法に従い、降伏しているからである。宇宙に存在するあらゆる被創造物と彼との間に、親しみと友情の絆が結ばれる。何故なら彼は、あらゆる被創造物が崇拝するアッラーのみを崇拝するからである。かれこそは全知全能の主であり、またあらゆるものがかれの命令と定めに降伏し服従している。その上でアッラーは、それらのあらゆる被創造物をあなたに、人間に差し出しているのである!

 不信仰の現実

反対側に、もう一人の人間がいる。彼は生まれながらにアッラーに服従し、人生の全てをアッラーに服従しつつ過ごし、それでいてこの服従に気付かず、またっそれについて何の考えも持たない。彼は自らの主を知らず、かれの法やかれの使徒たちについても信じていない。アッラーが彼に与えたもう知識や知性を、彼のために耳や目を形作りたもう創造主を知るために使ったこともない。むしろ彼は主の存在を否定する。かれへの崇拝を軽蔑し、彼の人生において与えられた取捨選択の権利をもって、かれの法に従うことを拒否する。あるいはまた、何ものかをかれと同列に配して崇拝し、かれの唯一性を示すかれの御しるしを信じることを拒否する。このような人物をカーフィルという。「Kufr 」とは「覆い隠す」という意味を持つ言葉である。この人物が「Kaafir」と呼ばれるのは、彼が無知と傲慢によって自らの自然を覆い隠す者だからである。世界の自然も、彼自身のそれも彼から隠される。自らの知性と論理力を、自らの自然を否定することにのみ用いているのが分かるだろう。自らの自然を破壊するものの他に、彼は何ひとつ見ようとしない。この深刻な過誤と明白な逸脱がどれほどの堕落を不信仰者にもたらすかについては、一人ひとりが自ら考えるべきであろう。

イスラームとは、この宇宙における全てが従う宗教である。それ故に、ここで学ばれるべきイスラームは何ひとつ難しい問題ではなく、アッラーが簡単にしたもうならば、誰にとっても非常に容易となる。イスラームとは、この世界のあらゆるものが従う宗教である。

天と地にあるものは、好むと好まざるとを問わず、只かれに服従、帰依し・・・(イムラーン家章3:83)

アッラーは言われる、

本当にアッラーの御許の教えは、イスラーム(主の意志に服従、帰依すること)である。(イムラーン家章3:19)

それは自らの全身全霊をもってアッラーに服従することである。かれに称賛あれ、

だからもしかれらが、あなたと論争するならば言いなさい。「わたしもわたしに従う者も、真心こめてアッラーに服従、帰依し仕えます。」(イムラーン家章3:20)

アッラーの使徒もまたイスラームの意味について問われたとき、こう答えている:「アッラーに心で服従し、(崇拝において)アッラーに顔を向け、義務のザカーを支払うことである。」(アフマドならびにイブン・ ヒッバーンによる)

一人の男がアッラーの使徒に尋ねた:「イスラームとは何か?」

アッラーの使徒は答えた:「あなたの心をもってアッラーに服従することである。それでムスリムは、自らの舌と手がもたらす害から守られる。」

その男は言った:「イスラームにおいて最も優れているものは何か?」

彼は答えた:「信仰(イーマーン)である。」

彼は尋ねた:「信仰とは何か?」

彼は答えた:「アッラー、かれの天使たち、かれの書物、かれの使徒たちを信じ、また死後の復活を信じることである。」(アフマドによる。Imaam Muhammad bin Abdul-Wahhaab著 ”Fadlul Islaam” p. 8参照)

またアッラーの使徒は「イスラームとはアッラーの他に崇拝に値する神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒であると証言することである。礼拝を行い、ザカーを支払い、ラマダーン月には断食し、可能であれば館への巡礼を行うことである。」とも語っている。(ムスリムによる)

また彼は、「ムスリムとは、その舌と手が全てのムスリムにとり安全な者のことである。」とも語っている。(アル=ブハーリーならびにムスリムによる)

アッラーは、後にも先にもこの宗教 − イスラームという宗教 − 以外の宗教を認めたまわない。全ての預言者たちもムスリムであった。預言者ヌーフについてアッラーは言われる、

かれらにヌーフの物語を読誦しなさい。かれがその民にこう言った時を思え。「わたしの人びとよ、わたしが(あなたがたと一緒に)留り、またアッラーの印を思い出させることがあなたがたにとって迷惑であっても、わたしはアッラーを信頼する。

そして彼はこう続ける、

・・・わたしは、ムスリムであるよう命じられている。」(ユーヌス章10:71-72)

また全能の主はイブラーヒームについてこう言われる、

主がかれに向かって、「服従、帰依しなさい。(注:ムスリムとなりなさい)」と仰せられた時を思い起せ。かれは、「わたしは、万有の主に服従、帰依します。」と申し上げた。(雌牛章2:131)

ムーサーについてかれは言われる、

ムーサーは言った。「わたしの人びとよ、あなたがたはアッラーを信仰するのなら、かれを信頼しなさい。もしあなたがたが服従、帰依する者であるならば。」(ユーヌス章10:84)

イーサーについて、かれは以下のように言われる、

その時われ(アッラー)は(イーサーの)弟子たちに啓示して、「われを信じ、わが使徒を信じなさい。」と言った。かれらは(答えて)言った。「わたしたちは信じます。あなたは、わたしたちがムスリムであることを立証して下さい。」(食卓章5:111)

この宗教 − イスラーム − の法、信仰ならびに規律は、全て神の啓示すなわちクルアーンとスンナをその根源としている。次章においてはそれらについて要約する。

 イスラームの根源

失われた宗教や人工的な宗教の信者たちの習慣として、彼らは自分たちが継承してきた実際の著者も訳者も不詳の、またいつ頃のものなのかも定かではない古代文書を神聖視する。だがそれらは他の人間と同様に弱さや移り気、気まぐれや忘却に悩まされた人間が書いたものに過ぎない。

クルアーンに関してはその他のいかなる書物とも違い、それは神の啓示という真理の根源に依って立つものである。これぞクルアーンならびにスンナである。以下にその双方について要約する:

A. 栄光のクルアーン:

イスラームがアッラーの宗教であり、それゆえアッラーは彼の使徒ムハンマドにクルアーンを啓示し、またムハンマドを信者たちの導きとし、ムスリムたちの法としたもうことは既に述べた通りである。アッラーが望めばそれは望まれた者の心における病への癒しとなり、アッラーが望めばそれは光となって望まれた者に成功をもたらす。それはアッラーが使徒たちを遣わしたもう原理を包摂している。(注:Mustafa As-Sibaa'ee著 “As-Sunnah wamakaanatuhaa fit-tashree'il Islaami” p. 376参照) クルアーンは最初に啓示された書物ではなく、またムハンマドも最初に遣わされた使徒ではない。アッラーはイブラーヒームに彼の書を啓示したもう。またトーラーをムーサーに、福音をイーサーに啓示したもう。これらの書物は全てアッラーから、かれの預言者たちと使徒たちに啓示されたものである。しかしそれらの書物の大部分は失われて消滅し、変更と改ざんが加えられてしまった。

クルアーンについてはアッラーご自身がその護持を保証し、またこれをもって以前の書物の廃止を証言するものとされたもう。預言者に語る際に、かれは言われる、

われは真理によって、あなたがたに啓典を下した。それは以前にある啓典を確証し、守るためである。(食卓章 5:48)

かれはクルアーンについて、それは万物を解き明かすものであると説かれる、

それでわれは、凡ての事物を解き明かす啓典をあなたに下し、・・・(蜜蜂章 16:89)

かれはこれを、導きまたは慈悲と呼ばれる、

今あなたがたの主からの明証と、導きと慈悲とが正に齎されている。 (家畜章 6:157)

これは高潔さへの導きであると説かれ、かれは言われる、

本当にこのクルアーンは、正しい(道への)導きであり、・・・ (夜の旅章 17:9)

クルアーンは人類を、人生におけるあらゆる場面における最も正しい道へと導くのである。

クルアーンがどのように啓示されたのか、またそれがどのように護持されたのかを熟考する者ならば誰であれこの書物を高く評価し、またその意図をアッラーのみに向けて浄めることだろう。いと高きアッラーは言われる、

本当にこの(クルアーン)は、万有の主からの啓示である。誠実な聖霊(ジブリール)がそれをたずさえ、あなたの心に(下した)。それであなたは警告者の1人となるために、・・・ (詩人たち章 26:192-194)

クルアーンを啓示したもうはアッラー、万有の主である。それを運んだのは誠実な精霊ジブリールであり、心においてこれを授かったのがムハンマドである。

クルアーンは、ムハンマドに授けられた永遠の奇跡である。そこには復活の日まで残り続ける御しるしが含まれている。以前の預言者たちの御しるしと奇跡は預言者たちの生が終わると同時に終わりを迎えたが、アッラーはクルアーンを永遠不滅の確証としたもう。

これは広範囲に渡る確証とまばゆく輝く御しるしである。アッラーは人類に対し、これと似た10スーラ、もしくはたった1スーラでも作ってみるようにと挑戦したもう。だがそれが文字と言葉の連なりであり、またこれを最初に啓示されたのは雄弁と修辞で知られる人々であったにも関わらず、誰にも為し得なかったのである。アッラーは言われる、

またかれらは言うのである。「かれ(ムハンマド)がそれを作ったのですか。」言ってやるがいい。「それなら、それに似た1章〔スーラ〕を持ってきなさい。・・・ (ユーヌス章 10:38)

クルアーンがアッラーによる啓示であるという事実の証明として、それが過去の人々に関する物語を含み、未来に起こる出来事を予見しているという点が挙げられる。そこにはごく最近まで発見されていなかった、科学的事実の予見も数多く含まれているのである。それ以外にも、これが神の啓示による書物であることの証明として、啓示された預言者はこのような事柄については何ひとつ知らず、またクルアーンに似たものを何ひとつ知らなかったということが挙げられよう。アッラーは言われる、

言ってやるがいい。「アッラーの御心なら、わたしはあなたがたにそれを読誦せず、またかれは、あなたがたに教えられなかったであろう。その(啓示)前に、わたしは確かにあなたがたの間で、一生ほどの(40年の)歳月を過ごした。あなたがたは未だ悟らないのか。」 (ユーヌス章 10:16)

むしろ彼は、読みもせず書くこともしない文盲だったのである。彼はまたいかなるシャイフも、またクルアーンに似た何かを作る者を訪れたこともなかった。アッラーは言われる、

あなたはそれ(が下る)以前は、どんな啓典も読まなかった。またあなたの右手でそれを書き写しもしなかった。そうであったなら、虚偽に従う者は疑いを抱いたであろう。 (蜘蛛章 29:48)

トーラーや福音においても言及されているこの人物、読み書きもできない無学の者を、ユダヤ教徒やキリスト教の修道僧たちが訪問していたのである。彼らはわずかに残されたトーラーや福音を所持しており、彼らの論争の仲裁や、彼らが把握し得ない問題についての見解を彼に求めたのであった。トーラーや福音についてムハンマドに解き明かしつつ、アッラーは言われる、

かれらは文字を知らない預言者、使徒に追従する者たちである。かれはかれらのもっている(啓典)律法と福音の中に、記され見い出される者である。かれは正 義をかれらに命じ、邪悪をかれらに禁じる。また一切の善い(清い)ものを合法(ハラール)となし、悪い(汚れた)ものを禁忌(ハラーム)とする。 (高壁章 7:157)

ユダヤ教徒やキリスト教徒たちが預言者に質問することについて、アッラーはまたこうも言われる、

啓典の民はあなたがたが天からかれらに啓典を齎すことを求める。(婦人章 4:153)

かれらは聖霊に就いてあなたに問うであろう。(夜の旅章 17:85)

かれらは、ズ・ル・カルナインに就いてあなたに問うであろう。(洞窟章 18:83)

本当にこのクルアーンは、イスラエルの子孫に、かれらが議論している最も大きな問題について語るものである。(蟻章 27:76)

イブラーヒーム・フィリップス師はかつて博士号取得のためにクルアーンを論文の主題とし、クルアーンを価値無きものと結論づけようとしてそれに失敗した。むしろクルアーンはその確証と証拠、御しるしをもって彼を圧倒した。この人物は自らの弱さを認め、かれの主に服従してイスラームを受け入れ改宗したのである。

あるムスリムの一人が高貴なるクルアーンの趣旨を訳したものの複製を、贈り物としてアメリカ人医師ジェフリー・ラングに手渡した。彼はクルアーンが自分に向けられていることを悟った。それは彼の疑問への解答であり、彼と主の御魂の間にある障壁を取り除くものであった。彼は言う、「まるでクルアーンを啓示した主が、私自身よりも私のことを知っているかのようでした。」

その通りである。クルアーンを啓示したもうは人間の創造主であり、かれこそはアッラーである。主に称賛あれ、かれは言われる、

かれが創造されたものを、知らないであろうか。かれは、深奥を理解し通暁なされる。 (大権章 67:14)

そのようなわけで、高貴なるクルアーンの趣旨を訳したものを読んだ人物がイスラームに導かれ、その彼が書いた書物を私が引用するといった出来事が起こるのである。

クルアーンは人間が必要としているあらゆるものを包摂している。そこには信仰の基礎や規律、人間関係やマナーについても含まれている。アッラーは言われる、

啓典の中には一事でも、われが疎かにしたものはない。 (家畜章 6:38)

クルアーンにはアッラーの唯一性を信仰するようにとの召喚や、かれの御名、属性と行為についての言及が含まれている。それは預言者たちと使徒たちがもたらしたものの、真正さを信仰するようにと呼びかける。それは復活を確証し、報奨と懲罰についての証拠と証明を確立する。それは過去の人々に関する物語を伝え、現世における懲罰ばかりではなく、来世においても業苦と懲罰に悩まされる人々についても見せしめとして伝える。

それはまたあらゆる時代と年代にふさわしく、科学者たちを驚嘆させる数々の証拠と御しるしを含む。多くの学者や研究者たちが、探し求めていたものをその中に見出す。こうした事実を明らかにする例のうち、三点のみ以下に挙げる:

1.  かれは言われる、 「かれこそは、二つの海を分け隔てられた御方である。一つは甘くして旨い、外は塩辛くして苦い。両者の間に障壁を設け、完全に分離なされた。 (識別章 25:53)」

かれはまたこうも言われる、

また(不信者の状態は)、深海の暗黒のようなもので、波がかれらを覆い、その上に(また)波があり、その上を(更に)雲が覆っている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手を差し伸べても凡んどそれは見られない。アッラーが光を与えられない者には、光はない。 (御光章 24:40)

ムハンマドが海を旅したことは一度も無かったことは良く知られている。また彼の時代には、海の深さを計測するためのいかなる道具も器具も存在しなかった。アッラーでなければ一体誰が、彼にこうした知識を与え得たであろうか?

2. アッラーは言われる、 「われは泥の精髄から人間を創った次に、われはかれを精液の一滴として、堅固な住みかに納めた。それからわれは、その精滴を一つの血の塊に創り、次にその塊から肉塊を創り、次いでその肉塊から骨を創り、次に肉でその骨を覆い、それからかれを外の生命体に創り上げた。ああ、何と素晴しいアッラー、最も優れた創造者であられる。 (信者たち章 23:12-14)」

ごく最近まで科学者たちは、こうした胎児の成長過程を発見するに至っていなかった。

3. アッラーはまたこうも言われる、 「幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らず に落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。 家畜章 6:59」

かつて人類はこうした網羅的思考を持たず、こうしたことを考えもせずに物事をなすがままに任せていた。もしも科学者が一団となって植物や昆虫を観察し、彼らの発見や調査を記録したなら、地上の植物や昆虫について科学者たちが未だ解明し得ていない点が多々あることを知りつつも、私たちは皆そろって感嘆することだろう。

フランス人の学者モーリス・ブカイユはトーラー、福音、クルアーンを比較し、また天地と人間の創造に関する近代科学における知見に照らして検討した。その上で、近代科学の発見がクルアーンと一致していることを見出したのである。同時に彼は現代において流布しているトーラーと福音に、天地と人間、動物の創造に関する誤った情報が数多く含まれていることも看破したのだった。(注:Maurice Bucaile 著 "The Torah, the Bible and the Qur'aan in the light of modern science" p. 133-283参照。彼はキリスト教からの改宗者である)

B. 預言者のスンナ:

アッラーは使徒にクルアーンを啓示し、またクルアーンを解釈するためのものとして預言者のスンナを啓示したもう。アッラーの使徒は言う、「ほんとうに、私はクルアーンを授かった通りの者である。」(アフマドならびにアブー・ダーウードによる)アッラーは彼にクルアーンの全体について、また各々の句についての解釈を許したもう。アッラーは言われる、

われがあなたにこの訓戒を下したのは、且つて人びとに対し下されたものを、あなたに解明させるためである。かれらはきっと反省するであろう。 (蜜蜂章 16:44)

スンナとは、イスラームという宗教における第二の根源である。それは預言者から − 信頼すべき絆を有する真正の伝承者たちによって − 伝えられた彼の言葉、行為、確証ならびに特質の全てを意味する。それには彼自身の願望ではなく、アッラーがその使徒ムハンマドに語られたものも含まれている。アッラーは言われる、

また(自分の)望むことを言っているのでもない。それはかれに啓示された、御告げに外ならない。ならびない偉力の持主が、かれに教えたのは、 ・・・ (星章 53:3-5)

預言者は人々に伝えるよう命じられたことのみを伝える。彼についてアッラーは言われる、

「わたしは啓示されたことに従うだけであり、わたしは、公明な一人の警告者に過ぎない。」 (砂丘章 46-9)

純正なるスンナとは規律と信仰、崇拝行為、またイスラームが命ずる人間関係やマナーなどの現実的な実践を指す。命じられたことについてはアッラーの使徒がその模範あり、彼が人々に解き明かしまた彼がした通りにするよう命じられる。例証について彼は言う、「私を見て、その通り礼拝せよ。」(アル=ブハーリーによる)

全能のアッラーは信仰が成就するようにと、信者たちに彼のあらゆる行為と言葉を見習うことを命じたもう。かれは言われる、

本当にアッラーの使徒は、アッラーと終末の日を熱望する者、アッラーを多く唱念する者にとって、立派な模範であった。 (部族連合章 33:21)

預言者の高潔なる同胞たちは、彼の言葉と行為を後代の者たちに伝え、彼らもまたその後代の者たちに伝えた。やがてそれはスンナの書物に記録されるようになった。スンナの伝承者たちは、誰がそれを伝えたかという点について非常に厳格であり、伝承の経路を遡ればその鎖が、実際にアッラーの使徒の時代に語った伝承者と繋がっていることがその条件となる。(注:スンナの伝承におけるこうした独特な学術的作法およびその正確さと精密さは、ムスリムたちの間にある学問をもたらした。それが「ilmul-jarh wat-ta'deel(人物の評価)」ならびに「ilm mustalahul-hadeeth(ハディースの分類)」である。これら二つの学問はムスリムにのみ学ぶことが許されており、彼ら以前には存在しなかったものである。)彼らはまた伝承に関わる者の全てが誠実かつ公正で、清廉な人物でなくてはならないことを条件としている。

スンナはイスラームの現実的実践として看做されるのと同時に、クルアーンの解説でもあり、これを解釈し、また章句に含まれる普遍的な意味を解き明かすものである。アッラーの使徒はこれら全てを時には彼の言葉をもって、また時には彼の行為をもって、また時にはその両方をもって引き受けた。スンナは、場合によりある規律や規定についてクルアーンには無い独自の解釈をもたらすこともある。

イスラームという宗教において、クルアーンとスンナは第一義の根源である。ゆえにこれらを従うべき方向として信じる必要がある。どちらの命じるところも従うべきものであり、それらが禁じるものを慎み、またそれらに含まれるものを信頼せねばならない。またそれらに含まれるアッラーの御名、属性および行為について、またかれを信じる友に与えられるものと、かれを信じない敵にもたらされるものについても信じるべきである。かれは言われる、

だがあなたがたの主に誓けてそうではないのである。かれらは信じないであろう。かれらの間の紛争に就いてあなたの裁定を仰ぎ、あなたの判決したことに、かれら自身不満を感じず、心から納得して信服するまでは。 (婦人章 4:65)

かれはまたこうも言われる、

また使徒があなたがたに与える物はこれを受け、あなたがたに禁じる物は、避けなさい。 (集合章 59:7)

本章においてはこの宗教の根源について紹介した。次章においてはこの宗教における各段階、すなわちイスラーム、イーマーン、そしてイフサーンについて論じる。また段階に関する要約と共にその柱についても解説する。

第一の段階

イスラームには五つの柱があり、それは以下の通りである。すなわちアッラーの他に崇拝すべき神は無く、ムハンマドはその使徒であると証言すること、礼拝を行うこと、ザカーを支払うこと、ラマダーン月には断食をすること、そして巡礼である。

1: アッラーの他に崇拝すべき神は無く、ムハンマドはその使徒であると証言すること。

証言のうち最初の部分は、主の他には大地にも諸天にも然るべき神は存在しないということを意味する。唯一かれのみが真の神であり、かれ以外の神々は全て擬神である。(注:Deenul-Haqq p.38参照)またこれはアッラーのみに捧げられた崇拝を浄め、かれのそばからその他を遠ざけるという意味でもある。この証言を口にする者が以下の二点を心得ない限り、その益を得ることはできない。

1. 信仰、知識、確信、そして証言に対する愛をもって証言すること。

2. アッラー以外の崇拝の対象は全て信じないこと。誰であれこの証言を口にしつつ、アッラー以外の崇拝の対象への不信を持たない限り、この証言は何の益ももたらさない。(注:Qurratu ‘uyoonul muwahhideen,  p. 60参照)

ムハンマドがアッラーの使徒であると証言することは、彼が命じるところ全てに従い、彼が告げるところ全てを信じ、彼が禁じ、警告したところ全てを慎み、彼が定めた通りによってのみアッラーを崇拝するということを意味する。またムハンマドは全ての人々に遣わされたアッラーの使徒であり、アッラーのしもべに過ぎないことを心に留めておかねばならない。それゆえに彼を崇拝するべきではない。むしろ彼に従う者は誰であれ楽園に入り、また彼に逆らう者は誰であれ火獄に入る以上は、彼に従い、彼の命じる通りにすべきなのである。同時にイスラームにおける信仰上の規律や、アッラーによって命じられた崇拝の行為、法的システム、家族間あるいは許された領域、または禁じられた領域における道徳の問題は全てこの高貴なる預言者を通じること無しには受け取られ得ないということを心に留めておかねばならない。何故なら彼こそは、主の法を伝えるアッラーの使徒だからである。(注:詳細はShaykh bin Baaz 著 “Kayfiyyatul Salaatin-Nabiyy”参照)

2:  礼拝 (注:Deenul-Haqq p.51-52参照)

礼拝は、イスラームにおける二つめの柱である。それは人間とその主をつなぐものであり、むしろイスラームの柱であると言えよう。これを一日に五回繰り返すことで、人はその信仰を新たにし、自らを罪の汚れから浄める。それは人と、猥雑なものや罪との間を遮る。朝、眠りから目覚めるとき、現世の問題に関る前に、主の御前に向かって自らを奇麗に浄めるのである。一日に五回、平伏し、起立し、頭を下げることによって、崇拝に値する主の絶大なる権利を肯定し、主の威光をいや増すのである。

この礼拝を始める前に、人は自らの心と体、衣類と礼拝の場を浄めなくてはならない。ムスリムは、 — それが容易であるならば — 自分の仲間であるムスリム達と礼拝を行わねばならない。彼ら全員が、心においてその主と向き合い、守護されたるカアバに顔を向けるとき、アッラーの館も彼らの方を向いている。礼拝は、かれを主がその被創造物に命じたもう崇拝を捧げるのに最も適した形式に定められている。主を賛美するのに、全身を用いるのである。舌によって言葉を唱えることに始まり、手足や頭部、そしてその他にも体のあらゆる部分全ての部分によって行う。

感覚も手足も、その取り分を得る。心もまた、その取り分を得る。礼拝はアッラーへの顕揚であり、主への称賛と賛美、賞揚である。 それには、真実を証言することやクルアーンの朗読も含まれている。彼を管理する主の御前に立ち、主への謙譲と献身を示し、主に近づけるよう乞い求めるのである。それから頭を下げ、平伏の姿勢を取った後でその場に座る。そして全てにおいて、服従と謙譲、降伏、主の偉大さと、その御力ゆえに自らが無力であることを主に示すのである。それからアッラーへの感謝と賛美を唱え、かれの預言者ムハンマドの平安と祝福を願い、最後に現世と来世における良きことを願って礼拝を締めくくる。(注:詳細はShaykh Ibn Baz 著 “Risaalataani fiz-zakaati was-siyaam”参照)

3:ザカー (注: Miftaah daar as-sa'aadah 2, p. 384参照)

ザカー、すなわち義務として定められた慈善はイスラームにおける第三の柱である。裕福なムスリムたちには、その財産からザカーを支払うことが必須の義務として定められている。彼が貧しい者たちや困窮者たち、貧しい者や困窮者、その他の人々に与えるのは、財産のうちごくわずかな部分でしかない。

ムスリムは、受け取るのにふさわしい人に対し、喜びをもってザカーを支払わねばならない。受け取る者に対してそれを思い起こさせたり、またどのような方法であろうとも、それのために受け取る者を傷つけてはならない。アッラーの喜びを求めて、それを支払わねばならない。ごくわずかでも、人々からの報奨や感謝を求めてはならない。見せびらかしたり、名声を求めたりせずに、むしろアッラーのために支払うべきである。

ザカーの支払は祝福をもたらし、貧しい人や困っている人、窮している人の心を喜ばせる。それは彼らが物乞いとなるのを防ぐ。裕福な者たちが彼らを見捨てるとき、それは彼らに対する同情となり、彼らを悩ませる黙殺と貧困からの保護となる。ザカーを支払うときには、その質において寛大さや度量、利他の精神、慈善と同情に値することが求められる。同時に、それは吝嗇や貪欲、価値無きものからの解放をも意味する。ムスリムたちはザカーによって互いを助け合う。裕福な者が貧しき者に慈悲を示すことで — これが正しく遂行されたなら — 備えを持たない貧しい者や困窮者、債務に苦しめられる者、糧を持たない旅行者は共同体からいなくなり、貧困が解消される。

4:断食

ラマダーン月には、夜明けから日没まで断食を行う。断食中のムスリムはアッラーへの崇拝として食べ物や飲み物、性行為やそれに準ずる行為を断ち、欲望の充足から自らの魂を節制する。アッラーは、病人や旅行者、妊娠中の女性、授乳中の母親、また出産を終えたばかりの女性に対しては断食を免除したもう。かれは、彼または彼女に対して、それぞれに見合った規律を定めたもう。

この月、ムスリムは自らの欲望に対して自己を節制する。この崇拝の行為は彼の魂を動物的な世界から、アッラーに近しい天使たちのそれにも似たところへと連れ出す。断食するムスリムの状態が、アッラーの喜びを成就すること以外には、現世において何ひとつ必要としない段階に達することもあるだろう。

断食は心に活力を与える。世界を放棄してアッラーの御許にあるものを探し求めるよう力づける。裕福な者には貧しい者たちや彼らの置かれた状態を思い出させる。そうして彼らに対する同情をその心にもたらし、自分たちがアッラーのご好意によって生かされていること、従って感謝をますます深めねばならないことを知らせるのである。

断食は魂を浄化し、アッラーへの畏れを生じさせる。この崇拝行為を通じて主を意識することに社会全体がまる一ヵ月を費や地域では、幸福も困難も、現されるものも隠されるものも、全てはアッラーの制御によるということを、個人にも社会にも感知させる。いと高きアッラーへの畏れに促され、アッラーは隠された秘密をご存知であると信じる者ならば、大小に関らず全ての行いについて問われる日、彼は当然のこととして主の御前に立つであろう。(注:Miftaah daar as-sa'aadah 2, p. 384参照)

5: ハッジ (注:詳細は “Daleelul-Hajj wal mu'tamir” ならびに Shaykh Ibn Baz 著 “Explanations in many issues pertaining to Hajj and Umrah”参照)

マッカにあるアッラーの館への巡礼を指す。成人しており、正常かつそれを行う能力、すなわちマッカへの移動手段を持っているか、あるいはその代償を支払う余力を持つ全てのムスリムにとっての義務である。全旅程を終えるに十分な糧を備えていなくてはならず、また扶養家族たちが、不在の間もその生活を十分に賄えるようでなくてはならない。旅程と、不在中の扶養家族たちの安全の確保を確実にしなくてはならない。マッカへの巡礼は、誰であれそれを実行できる者ならば生涯を通しての義務となる。

ハッジを行う意志のある者は、彼の魂が罪の汚れから解放されるようアッラーに悔悟しなくてはならない。マッカやその他の神聖な場所に到着したなら、崇拝の行為かつアッラーへの賛美としてハッジの儀式を執り行う。カアバ及びその他の場所を、アッラーに並べて崇拝すべきではないことを知っておかねばならない。何故ならそれらは、益も害ももたらさないからである。またアッラーが、ムスリムたちに館を巡礼するよう命じたのではないことも知っておかねばならない。そうしたことは、ムスリムならば誰一人としてすべきではない。

巡礼中の巡礼者は、二枚の布からなる白い衣類を着用する。世界中、至る所からムスリムたちが、同じひとつの所に集まり、同じひとつの服を身につけて、同じひとつの神を崇拝するのである。導師も弟子も、富める者も貧しい者も、白人も黒人も、彼らの間には何の違いもない。全てアッラーの被創造物であり、かれのしもべなのである。信仰と善行以外には、ムスリムを他のムスリムよりも優れた者とするものはない。

ムスリムたちはハッジによってお互いを知り、協力し合うことを知り、アッラーがそのご計画として彼らを立たせ、ひとつの所へ集める審判の日を思う。そうして彼らは、アッラーへの服従の行為を通して死後に備えるのである。

イスラームにおける崇拝: (注:Shaykhul Islaam Ibn Taymiyyah著 “Al-uboodiyyah”参照)

内面においても外面においてもアッラーを崇拝すること。アッラーは創造者であり、あなた方はその被創造物である。あなた方はしもべであり、崇拝するべき唯一の主はかれである。であるならば、人はその人生においてアッラーの真正なる道を歩み、かれの法に従い、かれの使徒たちの歩んだ道に続かねばならない。アッラーはしもべたちに対し、かれの唯一性を信じ、礼拝を行い、ザカーを支払い、断食とハッジを実践するようにとの偉大なる法を定めたもう。

しかしながら、上記のみがイスラームにおける崇拝の行為ということではない。イスラームにおける崇拝の行為はより包括的である。アッラーを愛し、公私に渡って行為と言葉によりかれのご満悦を求めることがその全てである。そのため、アッラーが愛し、かれがご満足したもう行為や言葉は全て崇拝となる。同様に、アッラーのお喜びを意図して行われるあらゆる良い習慣も崇拝である。アッラーのご満悦を求めて自分の父親や家族、配偶者、子供たちや隣人たちとの間に良好な関係を築くならば、それは崇拝である。家庭や市場、仕事の場における良い行いは、アッラーのためにそうしたならばそれは崇拝である。信用を得、誠実かつ正直であり、他人を傷つけることを避け、弱者に援助を与え、合法的な手段で糧を得、家族と子供たちのために費やし、貧しい者をなぐさめ、病人を見舞い、飢えた者に施し、不正な者を救い出すことは、アッラーのために為されたならばそれは崇拝である。すなわち、それが自らのためであれ、家族や社会、あるいは祖国のためであれ、アッラーのご満悦を得ようと意図してのことならば、全ての行為が崇拝となるのである。

善良な意図をもってのことならば、自らの個人的な情熱を合法的な手段で満たすことも崇拝となる。アッラーの使徒は「あなた方のうち誰かが、自らの性的な欲求を満たすならば、それも慈善の行為である」と語っている。(注:ムスリムによる)

同胞が尋ねた、 「おお、 アッラーの使徒よ!我らのうち誰かが性欲を満たしたとしても、報奨が与えられるのでしょうか?」

彼は答えた、「正直に言いなさい。それが不合法な手段で行われたなら彼は罪を得よう。同じく、それが合法な手段で行われたなら彼は報奨を得よう。」

預言者はこうも言った、「あらゆるムスリムは慈善を支払うべきである。」

彼は尋ねた、「慈善に支払うものを持たない者はどうすれば良いでしょうか?」

彼は答えた、「彼の両手をもって働き、それから慈善を支払いなさい。」

彼は再び尋ねた、「しかしそれが出来ない場合は?」

彼は言った、「過誤にある者を援助しなさい。」

彼は再び尋ねた、「しかしそれが出来ない場合は?」

彼は言った、「あらゆる良きものを受け入れなさい。」

そして彼は再び尋ねた、「しかしそれでも、それが出来ない場合は?」

彼は答えた、「悪を行うことを避けなさい。彼にとっては、それも慈善の行為である。」 (注:ブハーリーならびにムスリムによる)

(注:本章については Shaykh Muhammad bin Abdul-Wahhab著 “Kitaabut-Tawheed”ならびに “Al-Usooluth-Thalaathah”、また “Aadaabul-mashyi ilas-Salaah” を参照のこと。また詳細についてはAbdur-Rahmaan Al-Umar著 “Deenul-Haqq” ならびに Muhammad bin 'Alee al-Arfaj 著 “Maalaabudda min ma'rifatihi anil Islaam”、Abdullah Al-Jaarallaah 著 “Arkaanul Islaam” 、 Shaykh Abdullaah Al-Jibreen 監修 “Sharh arkaanil Islaam wal Eemaan” 参照のこと)

 第二の段階

信仰(イーマーン)と、信仰における六本の柱がある。アッラー、天使たち、書物、使徒たち、そして週末の日と定命を信じることがそれに相当する。

1: アッラーを信じること

かれの主権、すなわちかれこそは主であり、創造主であり、万物の所有者でありこれを司る者であることを信じなくてはならない。またかれのみが崇拝にふさわしいということを信じなくてはならない。何故なら真実の主はただかれのみであり、かれ以外はすべて虚偽の擬神だからである。また、かれの持つ美しい御名と、かれの持つ完璧かつ最も優れた属性を信じなくてはならない。かれは言われる、

「(かれは)天と地、またその間にある凡ての有の主であられる。だからかれに仕え、かれへの奉仕のために耐え忍びなさい。あなたはかれと肩を並べ呼ぶものを(外に)知っているのか。」 (マルヤム章 19:65)

またかれがうたた寝や睡眠に襲われることもない。隠されているものや証拠の全てを知り、天地の主権は全てかれに属するということを信じるべきである。かれは言われる、

 幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らず に落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。 (家畜章 6:59)

またかれ − かれに称賛あれ − がその玉座を、かれの知識と共に被創造物の上に高く掲げ、ゆえに被創造物たちについて知悉し、彼らの声を聞き、彼らの様子を見、彼らの問題を制御したもうことを信じなくてはならない。かれは貧しき者に施し、落胆する者には安心を与え、お望みの者に権威を与え、またお望みの者から取り上げたもう。かれは意志を有し、またお望みの通りに行いたもう。(注:Al-Aqeedatus-saheehah p.17およびAqeedatul ahlus-sunnah waljamaa‘ah  p. 25参照)

アッラーを信じることの益は以下の通りである:

1. それにより、人はアッラーを愛し、かれを賛美し、かれの命ずるところを行い、かれが禁ずる全てを慎むようになる。これを行う者は、現世と来世における完璧な幸福を成就する。

2. アッラーへの信仰を通じて、意識の中に自尊心と尊厳が芽生える。世界に存在するあらゆるものの真の所有者はアッラーのみであり、かれの他には益も害ももたらす者はないと知ることで、人はアッラー以外の全てを捨て去り、アッラー以外に対する畏れを心の中から取り除き、アッラー以外に希望を託さず、アッラーの他には何も畏れないようになる。

3. アッラーへの信仰を通じて、心の中に謙譲が芽生える。あらゆる援助がアッラーによってもたらされることを知れば、悪魔には彼を騙すことも出来なくなる。横柄かつ尊大になることもなく、権力や財産を自慢することもなくなる。

4. アッラーを信じる者たちには、成功と救済への道はアッラーがお喜びになる善行以外にはないという確かな知識を得るだろう。一部の人々は、アッラーの息子が人類の罪に対する償いとして磔にされたという過誤を信じている。また別の人々は、彼らの欲するところを叶えてくれるものと考えて、実際には益も害ももたらさない擬神を信じている。また別の人々は無神論者であり、創造主の存在そのものを信じない。これらの信条は全て単なる希望的観測に過ぎない。こうした信条を持つ者は、復活の日にアッラーと出会ったときに真実を知り、自分たちが明らかな過誤にあったことを理解するのである。

5. アッラーへの信仰を通じて、人の中には勇気、忍耐、堅固といった大いなる活力が生じる。アッラーを信頼し、アッラーのご満悦を成就するために、現世において高邁な目的のために努力するようになる。彼は天地の所有者に信頼を託し、かれの援助と導きを得るだろうという完全な確信を得ている。忍耐と、アッラーに対する信頼において、彼は山々のように堅固となる。(注:Aqeedatu ah lus-sunnah waljamaa‘ah p. 44ならびにMabadiul Islaam p.80,84参照)

2: 天使たちを信じること

ムスリムは天使たちの存在を信じなくてはならない。アッラーは彼らを創造し、彼らについて「名誉あるしもべ (預言者章21:26-28)」と説きたもう。主が語らない限りは彼らも語らず、また彼らの行いは主のご命令によるものである。主は彼らの前にあるものも後にあるものもご存知であられる。主のご満悦に通じること以外に、彼らには執り成すことはできない。彼らは畏怖と畏敬の念をもって主の御前に立つ。

またかれは、彼らについて以下のように説き明かされる、「かれに仕えて高慢でもなく、疲れも知らない。かれらは毎日毎晩にかれを讃え、休むことを知らない。」 (預言者章21:19-20)

アッラーは彼らを人の目から隠したもう。それゆえ、私たちには彼らを見ることはできない。だがアッラーは、時としてかれの預言者たち、使徒たちに対しては彼らを示したもう。

天使たちには、割り当てられた使命がある。ジブリールには、アッラーが望みたもうかれの使徒に、アッラーからの啓示を運ぶ役目が与えられている。 彼らの中には、魂を運ぶ役割を持つ天使もいれば、胎児を子宮へ連れてゆく役割を持つ天使、人類を保護する天使もいる。彼らの中には、人間の行為を記録する役割を持つ者もいる。あらゆる人には二人の天使がついており、「右側にまた左側に坐って、2人の(守護の天使の)監視者が監視する。かれがまだ一言も言わないのに、かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。」 (カーフ章50:17-18)

天使たちを信じることの益

1. 多神教の汚れから、ムスリムの信仰を浄化する。アッラーの創造による、これら素晴らしい役割を担う天使たちの存在を信じることにより、一部の人々が、世界における出来事についての役割を担っていると主張する類いの想像上の生きものの存在を信じることから解放されるのである。

2. ムスリムたちに、天使たちは益も害ももたらさず、彼らは名誉あるしもべであり、アッラーに命じられれば逆らわず、ただ命じられた通りに行うのみであることを知らしめる。ムスリムは彼らを崇拝せず、自らの問題について彼らの導きを求めたり、彼らに託したりすることはない。

3: 書物を信じること

真実を解き明かし、これに招くために、アッラーがかれの預言者たち、使徒たちに啓示したもう書物を信じることである。アッラーは言われる、

実にわれは明証を授けて使徒たちを遣わし、またかれらと一緒に、啓典と(正邪の)秤を下した。それは人びとが正義を行うためである。 (鉄章 57:25)

これらの書物には複数ある。それらには預言者イブラーヒームの書、預言者ムーサーのトーラー(律法)、預言者ダーウードに下された詩篇と、預言者イエス・キリストがもたらした福音も含まれている — 彼ら全ての上に平安あれ。

上記の書物を信じることは、それを啓示したのはアッラーであり、そこにはアッラーが当時の人々が守るように望みたもう法が含まれていると信じることである。

アッラーが知らせたもうこれら書物のすべては、ほとんど消失している。イブラーヒームの書は、もはやこの世には存在していない。トーラー、福音書、そして詩篇に関しては、たとえその名で呼ばれる書物がユダヤ教徒やキリスト教徒の手の中にあったとしても、変更や加筆がなされ、もはや原型を留めておらず、更に元の内容の多くは失われてしまっている。これらの一部では無いものが含められ、またその著者によるものでは無いものが、そうであるかのように扱われている。例えば旧約聖書は四十巻以上の書物を擁するが、ムーサーに起因するものはそのうちわずか五冊のみである。現存する福音書は、何ひとつとしてイーサーに起因するものではない。アッラーが啓示したもう最後の書物は、預言者ムハンマドに下されたクルアーンである。それは今もなお常時アッラーによって保護され、完全なまま保たれている。その文章、言葉、音と意味には、いかなる変化も変更も忍び寄ることは皆無であった。

クルアーンは、様々な点において前掲のいかなる書物とも異なっている:

1. 過去の書物は失われてしまった。それらには、然るべき所有者ではない者たちによる変更や加筆が付け加えられている。多くの解説や解釈が加えられており、そこには神の啓示、理法と自然を否定するものも含まれている。クルアーンに関しては、今なおアッラーがムハンマドに示したもう文字と語句のまま、アッラーによって保護されている。変更や追加が、これに忍び込んだことはない。ムスリムたちがクルアーンに傷がつくことを拒み、そのままの状態で保持することを強く望んだからである。彼らはその中に、預言者の人生史や彼の同胞たちの記録、クルアーンの解説、あるいは崇拝行為や人間関係に関する規律などを混入することはしなかった。

2. 現代においては、古典に関して歴史学的に信頼に足る言説は皆無である。そもそも啓示のうちいくつかは、どのような言語を用いて下されたのかも不明であり、また何が啓示されたのかについても知られていない。 それらの一部は、実際にそれを著した者とは別の者によるものとさえされているのである。クルアーンについては、音声または書面の形式において、ムハンマドに続く方法で連綿と受け継いできたいついかなる時代や地域においても、同様の複写が無数に存在し、また暗記によってこの書物を心に保管している無数のムスリムたちが存在した。もしも口頭による復誦が書面による複写と一致していない場合、異なる複写は認められない。人々の記憶と書面による複写は、常に一致していなければならないからである。

上記に加えてとりわけクルアーンは、世界中のいかなる書物よりもはるかに多くの場面において、暗記によって伝えられたのである。こうした伝達方法は特殊なものではなく、ムスリムたちの間でのみ見受けられるというものではない。クルアーンは、この方法によって保護されてきたのである。学生たちは、教師の手に自らの心を預けてクルアーンを学ぶ。そして教師もまた、かつては彼の教師の手によってクルアーンを暗記して学んだのである。また、教師は学生たちに「イジャーザ」と呼ばれる免状を与える。それは教師が、自分がその教師から学んだことを学生達に伝達し終えたことを証明するものであり、教師から教師へ、誰が誰からクルアーンを学んだのかを明らかにし、それは最終的にはアッラーの使徒に連続している。これがアッラーの使徒に連なる、教師たちの口頭による継承の鎖である。

クルアーンにおけるあらゆるスーラ(章)、またあらゆる語句はムハンマドに啓示された当時のものと相違ないという点については、継承者たちの鎖による強い証拠と、歴史の証明が数多く存在する。

3. 過去の書物が啓示された際に用いられた言語は、長い時を経てほぼ絶滅している。 現代においては、これらの言語を話すものは皆無であり、理解できる者もごくわずかである。クルアーンが啓示された言語については、今もなお何千万にも及ぶ人々が使用する生きた言語である。それは世界中のあらゆる国において教えられ、また学ばれてもいる。たとえこれを学んだことのない者であっても、クルアーンの意味を教えることができる者はいたるところに見出せる。

4. 前掲の書物については、それぞれが特定の時代、特定の地域に向けて下されたものである。それゆえ、そうした地域や時代に特有の規則が含まれている。こうした特徴を持つ書物が、全ての人類にとり適切であるとは言えない。

偉大なるクルアーンは、あらゆる時代とあらゆる人々にとって意味を持つ。人間同士が互いにどう関るべきか、あらゆる時代においても通用する礼儀や規則を含んでいる。何故なら、これは全人類に下された書物だからである。

以上を鑑みれば、最初の原形も失われ、もはや世界の誰も使用しない言語によって記された書物のように、人間にとって不利でしかないものがアッラーの確証であるはずがないことは明白である。アッラーによる、被創造物に対する確証ならば、それは保護され、加筆からも守られた書物の中に存在するはずである。その複写はあらゆる場所に広まっているはずであり、全人類にアッラーのメッセージを伝えることのできるよう、何百万という人々によって読まれる生きた言語によって記されたものでなくてはならない。その書物こそはアッラーによって預言者ムハンマドに啓示され、以前の書物について証言し、また変更される以前のそれらについて確証する偉大なるクルアーンである。この書物こそは全人類が従うべきものであり、それは彼らに対する光となり、癒しとなり、また導きと慈悲となり得るものである。アッラーは言われる、

だがこれ(クルアーン)は、われが下した祝福された啓典である。だからこれに従って、あなたがたの義務を尽くしなさい。恐らくあなたは、慈悲に浴するであろう。 (蜜蜂章 6:155)

かれはまたこうも言われる、

言ってやるがいい。「人びとよ、わたしはアッラーの使徒として、あなたがた凡てに遣わされた者である。」 (高壁章 7:158)

(注:本項については Al-Aqeedatu-s-saheehah  p. 17ならびにAqeedatu ahlis-sunnah waljamaa‘ah  p. 22、Mabaadiul Islaam  p. 89参照)

4: 使徒たちを信じること

アッラーがその被創造物に対し、アッラーを信じ、使徒たちを信じる者には楽園の吉報を伝え、また逆らう者には懲罰があることを警告するために使徒たちを遣わしたことを信じることである。アッラーは言われる、

本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。 (家畜章 16:36)

かれはまたこうも言われる、

使徒たちに吉報と警告を齎せたのは、かれらの(遣わされた)後、人々に、アッラーに対する論争がないようにするためである。 (婦人章 4:165)

使徒たちは数多く存在する。最初の者はヌーフであり、最後の者はムハンマドである。イブラーヒーム、ムーサー、イーサー、ダーウード、ヨナ、ザカリヤ、そしてサーリフなど、アッラーは彼らについて多くの物語を告げたもう。また、アッラーが物語を伝えていない者たちも数多く存在する。アッラーは言われる、

ある使徒たちに就いては、先にわれはあなたに告げたが、未だあなたに告げていない使徒たちもいる。 (婦人章4:164)

彼ら全ての使徒たちは、アッラーによって創られし人間であった。彼らは主権や神権に相当するいかなる質も持たない。従って、彼らに対してはいかなる崇拝行為も捧げるべきではない。何故なら彼らには、どのような害も益ももたらさないからである。預言者ヌーフについてアッラーは言われる、

わたしはあなたがたに向かって、わたしがアッラーの宝物をもっているとも、幽玄界を知っているとも、またわたしは天使であるとも言わない。 (フード章11:31)

アッラーはまた、ムハンマドに対しこう伝えるように命じたもう、

「アッラーの宝物がわたしの手にあるとは、あなたがたに言わない。またわたしは、幽玄界に就いても知らない。またわたしは天使であるとも言わない。」 (家畜章 6:50)

またこう伝えるようにも言われる、

「わたしはアッラーが御好みにならない限り、自分自身のための利害すら自由に出来ない。」 (高壁章 7:188)

従って、預言者たちとはアッラーが選びたもうかれのしもべであり、メッセージを啓示された名誉あるしもべなのである。彼らの宗教はイスラームであり、アッラーはこれ以外のいかなる宗教をも認めたまわない。アッラーは言われる、

本当にアッラーの御許の教えは、イスラーム(主の意志に服従、帰依すること)である。 (イムラーン家章 3:19)

預言者たちのメッセージは、その基本において同一であり法において異なっている。アッラーは言われる、

われは、あなたがた各自のために、聖い戒律と公明な道とを定めた。 (食卓章5:48)

これらのうち、最終的な法はムハンマドのそれである。これは以前に下された他のいかなる法をも廃止するものである。彼のメッセージは神からの全ての啓示のうち最後のものであり、彼は全ての使徒たちのうち最後の者なのである。誰であれ、預言者を信じる者は彼ら全てを信じなくてはならず、そのうち一人でも否定するならば、全員を否定するに等しい。何故なら全ての預言者たちと使徒たちは、アッラーを信じ、かれの天使と書物、かれの使徒たちと週末の日を信じるよう呼びかけており、彼らの宗教は同じひとつのものだからである。全員が預言者たちと使徒たちを信じるよう呼びかけている以上、誰か一人を信じない者は、彼ら全員を信じていないということになる。(注:Al-Aqeedatus-saheehah p. 17ならびにAqeedatu ah lus-sunnah waljamaa‘ah  p. 25参照)アッラーは言われる、

使徒は、主から下されたものを信じる、信者たちもまた同じである。(かれらは)皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。 (雌牛章 2:285)

かれはまたこうも言われる、

アッラーとかれの使徒たちを信じないで、アッラーとかれの使徒たちの間を、分けようと欲して、「わたしたちはあるものを信じるが、あるものは信じない。」と言い、その中間に、一つの路を得ようと欲する者がある。これらの者こそは、本当に不信者である。われは不信者のために恥ずべき懲罰を備えている。 (婦人章 4:150-151)

5: 終末の日を信じること

何故なら、世界に存在するあらゆるものはその終わりに死を迎えるからである!それでは、死後の人間には何が定められているのだろうか?現世における懲罰を免れた不正な者の結末とはいかなるものであろうか? 彼らが為した不正義の責任から逃れうるものだろうか?現世における報奨を受け取ることの出来なかった正しき人々はどうなるのだろうか?彼らの報奨は無に帰するのだろうか?

本当に、アッラーが世界の終末を裁可し、あらゆる被創造物と地球が死を迎えるまで、人類は世代から世代に渡って常に死を迎えて続けてきたのである。あらゆるものが証言者となるその日に、アッラーは全ての被創造物を復活させたもう。その日、アッラーは過去の全ての者たち、後から来た全ての者たちを集めたもう。それから、かれは彼らに対し、現世における彼らの全ての行為を、良きものも悪きものも挙げるよう告げたもう。信仰者たちは楽園へと導かれ、不信仰者たちは火獄へと追い立てられる。

楽園とは、信仰する友人たちのためにかれが用意した平和の住処である。そこには、誰しもが説明し得ないあらゆる種類の幸福がある。そこには階梯があり、またあらゆる階梯に、アッラーへの信仰と服従の度合いに応じて住人たちが住まう。楽園の住人たちのうち、最も低い階梯は、現世における十の王国を一人で支配する王のそれに等しい。

地獄とは、かれを信じない者たちのためにアッラーが用意した懲罰の住処である。そこには、ほんの少し語るだけでも恐ろしいあらゆる種類の業苦がある。もしも来世に住まう者に対し、アッラーが死ぬことを許したならば、火獄の住人たちは必ずや迷うことなく死を選び取るだろう。

アッラーはその知識により、人間それぞれの言動については良きものも悪きものも、公私に渡り全てご存知であられる。かれは一人の人間に対し、二人の天使を遣わしたもう。一人は善行を、もう一人は悪行を記録しており、何ひとつ漏らすことがない。アッラーは言われる、

かれがまだ一言も言わないのに、かれの傍の看守は(記録の)準備を整えている。 (カーフ章 50:18)

彼の行為は全て書物に記録され、それが復活の日に手渡されるのである。アッラーは言われる、

(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなたがたは見るであろう。かれらは言う。「ああ、情けない。この 書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。」かれらはその行った(凡ての)ことが、かれらの前にあるのを見る。あなたの主は誰も不 当に扱われない。 (洞窟章 18:49)

人は自らの記録を読むが、書かれていることについては何ひとつ否定しないだろう。そしてもしも自らの行為について何かしら否定したならば、アッラーはその者の耳や目、手や足や肌に語る力を与え、彼らに証言させたもう。アッラーは言われる、

するとかれらは、(自分の)皮膚に向かって言う。「あなたがたは何故わたしたちに背いて、証言をするのですか。」それらは(答えて)「凡てのものに語らせ られるようにされたアッラーが、わたしたちに語らせられます。かれは最初にあなたがたを創り、そしてかれの御許に帰らせられます。」と言う。また、「あなたがたは、自分の耳や目や皮膚が、あなたがたに背くような証言など出来ない(と思い)、自分を庇うこともしなかった。寧ろあなたがたは自分の行っていたことなど、アッラーが沢山知っておられる訳がないと、考えていた。」 (フッスィラ章 41:21-22)

終末の日、すなわち復活の日を信じることについては、全ての使徒たちと預言者たちが説いている。(注:復活の更なる確証については本書における復活の項参照)アッラーは言われる、

かれの印の一つを、あなたは荒れ果てた大地に見る。われがその上に雨を降らせると、動きだし、盛り上がる。本当にそれに生命を与えられた方は、まさに死者を甦らせられる方である。かれは、凡ゆることに全能である。 (フッスィラ章 41:39)

かれはまたこうも言われる、

かれらは、天と地を創造なされ、その創造に疲れることもないアッラーが、死者を甦らせることくらい、できるとは思わないのか。 (砂丘章 46:33)

これは神の知識を必要とするものである。アッラーはその被創造物を無為に創りたまわず、また好き勝手にさせることもない。知性において最も弱き人でも、そうと意図すること無しにはどのような重要な行動も起こせない。人間の場合を考えてさえそうであるのに、どうしてアッラーが面白半分に人間を創り、無駄なままに放置したまうなどと思えるだろうか。人々が何を言おうとも、アッラーははるかに高く貴い。アッラーは言われる、

「あなたがたは、われが戯れにあなたがたを創ったとでも考えていたのか。またあなたがたは、われに帰されないと考えていたのか。」 (信者たち章 23:115)

かれはまたこうも言われる、

われは天と地、そしてその間にあるものを、戯らに創らなかった。それは信仰のない者の憶測である。だが(いずれ地獄の)火を味わう信仰のない者こそ哀れである。 (サード章 38:27)

全ての賢い者たちが、最後の審判の日を信じることの必要性を証言している。知性と理性がそれを必要としており、また健全な人間性はそれに同意する人が復活の日を信じるとき、慎むように命じられたことを慎まねばならないのは何故なのか、また行うように命じられたことを行わねばならないのは何故なのかを理解し、アッラーと共にあるものを望むようになる。また、人々に不正を為す者は、その必然として報いを受け、復活の日には彼が悪を為した人々から復讐されるであろうことを知るだろう。また、人にはその返報があるということを知るだろう。良き行いには良き報奨が、また悪しき行いには相応の罰が、各々の魂が自らの努力に対して報いを得ることで、神の正義が完成するのである。アッラーは言われる、

一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る。 (地震章 99:7-8)

人類のうち、復活の日がいつ訪れるのかを知る者は誰ひとりとしていない。この日については、遣わされた預言者にも、愛されし天使たちにも知らされていない。この日についての知識は、アッラーのみが保持したもう。かれは言われる、

かれらは(最後の審判の)時に就いて、何時それがやって来るのかとあなたに問うであろう。言ってやるがいい。「それを知る方は、只わたしの主だけである。その時(最後の審判)を知らせて下さるのはかれの外にはない。」 (高壁章 7:187)

かれはまたこうも言われる、

アッラー、本当にかれ(だけ)が、(審判の)時を知っておられる。 (ルクマーン章 31:34)

6:定命を信じること

アッラーは起きたこともこれから起こることについても知りたもうことを信じなくてはならない。かれは状態と行為、かれのしもべたちの寿命とその糧について知りたもう。かれは言われる、

本当にアッラーは、凡てのことを熟知なされる。 (蜘蛛章 29:62)

かれはまたこうも言われる、

幽玄界の鍵はかれの御許にあり、かれの外には誰もこれを知らない。かれは陸と海にある凡てのものを知っておられる。一枚の木の葉でも、かれがそれを知らず に落ちることはなく、また大地の暗闇の中の一粒の穀物でも、生気があるのか、または枯れているのか、明瞭な天の書の中にないものはないのである。 (家畜章 6:59)

(注:クルアーンの中でも、それがアッラーから啓示されたものであることを明白な証拠かつ決定的な証明として示すのはこの句のみである。あらゆる時代における人類 − 知識が広まった現代においてさえ人間は傲慢であるが − こうした包括的かつ網羅的な思考を獲得せず、物事をあるがままに放置している。最大限に努力したとしても、出来ることは特定の環境における植物や昆虫の不思議を解明するためにそれらを観察することである。しかし木々や虫たちはそれよりも更に多くを、私たちに隠しているのである。包括的かつ網羅的な思考とは人類にとっては未知であるか、あるいはその能力を持っていない)

これら全てを、かれは御許に記録したもう。かれはまたこうも言われる、

われは一切を、明瞭な記録簿の中に数え上げている。 (ヤー・スィーン章 36:12)

かれは言われる、

あなたはアッラーが、天にあり地にある一切を知っておられることを知らないのか。それは凡て記録に載せてある。それは、アッラーにおいては容易なことである。 (巡礼者章 22:70)

かれはまたこうも言われる、

何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る。 (ヤー・スィーン章 36:82)

あらかじめ全てを定めたもうはアッラーであり、また全てを創りたもうはかれなのである。かれは言われる、

本当にわれは凡ての事物を、きちんと計って創造した。 (月章 54:49)

かれはまたこうも言われる、

アッラーは、凡てのものの創造者であり、・・・ (集団章 39:62)

かれは人々を、かれを崇拝させるために創り、彼らに対してそのことを明らかにしたもう。彼らに、かれに従うよう命じ、かれに逆らうことを禁じ、彼らに対してそのことを明らかにしたもう。彼らに、アッラーの御命令を実行し、報奨を得ることができる力と意志を与えたもう。またこれにより彼らは禁じられた行為をし、罰せられるようにもなったのである。

もし人が神の定命を信じるならば、以下を成就するであろう:

1. 資力を用いる際には、アッラーに頼るようになる。何故なら資力もその原因も、全てはアッラーによる神の定命であることを知っているからである。

2. 心の平安と静謐を得る。あらかじめ定められた出来事は必ず起こるということ、またそれを起こすのはアッラーであることを知っているからである。それ故に、彼は安心してアッラーの決定に満足する。神の定命を信じる者以上に満足し、更なる心の平安を求める者はいない。

3. 目的を達成しても尊大に振る舞わない。何故ならそれを達成できたのはアッラーからの祝福であり、良きものも成功も、かれはあらかじめ定めたもうことであると知っているからである。従って、彼はアッラーに感謝を捧げるだろう。

4. 望んでいた結果が得られず、また必要とはしていない出来事が起きたときも、悲しんだり、苦しんだりすることはない。抵抗し得ないアッラーの定めを通して起こったということを知っているからである。かれの命令に抵抗したり、かれの裁可に異議を申し立てることは出来る者は誰ひとりとしていない。従って彼は忍耐し、それによりアッラーから報奨を得るだろう。アッラーは言われる、

地上において起こる災厄も、またあなたがたの身の上に下るものも、一つとしてわれがそれを授ける前に、書冊の中に記されていないものはない。それはアッラーにおいては、容易な業である。れはあなたがたが失ったために悲しまず、与えられたために、慢心しないためである。本当にアッラーは、自惚れの強い高慢な者を御好みになられない。 (鉄章 57:22-23)

(注:Al-Aqeedah as-saheehah p.19ならびにAqeedah ahlisunnah wal jamaa’ah p.39、Deenul Haqq p.18参照)

5. アッラーへの完全な従属を得る。何故ならムスリムは、益するも害するもそれを引き起こす力を持つのはただアッラーのみであることを知っているからである。そのため彼はどのような権力者も恐れず、誰はばかることなく自分の持てる力を善行に費やすことを躊躇しない。預言者はイブン・アッバースに語った:「もし人類が皆あなたに益をもたらそうという点で同意したとしても、アッラーがあなたに定めたもうこと以外は、何ひとつあなたのためにはならないと知りなさい。またもし彼らがあなたに害をもたらそうという点で同意したとしても、アッラーがあなたに定めたもうこと以外は何ひとつあなたを害するものはないのである。」(アフマドならびにアッ=ティルミズィーによる)

 第三の段階

第三の段階は「イフサーン(崇拝の行為における、最も誠実かつ完成された状態)」である。これはアッラーを崇拝する際に、あたかもかれを見ているかのように振る舞うことを意味している。またこれには、もしもあなたにかれが見えなくとも、かれはあなたを見ているというという意味も含まれている。自らの主に対する崇拝は、このように上質でなくてはならない。これはすなわち、自分は主の御前に立っており、アッラーは自分の近くにおられるということを心に留めておくということである。この状態は人にアッラーに対する畏怖と畏敬、また大いなる敬意の念をもたらす。崇拝の行為において人を誠実にし、その完成のために努力する勇気を与える。

崇拝の行為の間にも、しもべはその主を意識する。まるでかれが見ているかのように、かれの近さを思い起こす。もしそれが出来ない場合は、アッラーは彼を見ておられ、彼の秘密も公然と行ったことも知っており、かれには何ひとつ隠し立てすることはできないという事実を意識するべきである。(注:Jaamiul ‘uloom wal-Hikam  p. 128参照)

この段階に達したしもべは心から彼の主を崇拝し、かれの他には何ひとつその目を向けることがない。人々の称賛を期待することもなく、また人々の非難も恐れない。彼にとっては、主のご満悦と称賛があればそれで十分なのである。こうした人は、人前でも、あるいは一人きりでも同じように行動する。心の中にあるものも、意識をよぎるものも、アッラーは全てご存知であるという確固たる信仰を持ち、私的にも公的にも主を崇拝する。信仰が彼の心を圧倒し、主への意識が彼の上に出現しているのである。彼の手足はアッラーに降伏し、彼はそれらをアッラーのお喜びになること、かれが好まれること、またかれに服従すること以外には用いないようになる。

彼の心がその主に添えられている以上、彼はいかなる被創造物の助けも求めない。何故なら彼には、アッラーで十分だからである。彼は誰にも不平を言わず、何故なら彼が求めるのはアッラーに近づくことであり、援助者はただかれのみで十分だからである。どこにいようとも孤独を感じず、誰に対しても恐れず、何故なら彼はアッラーが彼と共にあり、彼の状態を全てご存知であることを知っているからである。かれは最も優れた援助者であり、それ故に彼にはかれで十分なのである。何であれアッラーに命じられたことならば、彼がそれを放棄せず、どんな些細な罪も犯すことはない。何故なら彼は主の御前に自らを恥じており、命令を選り好みしてかれに見とがめられることを嫌い、また禁じられたことを行ったり、求めたりするところをかれに知られることを嫌っているからである。彼が誰かを抑圧することもなければ、誰かに不正を働いたり、誰かの権利を奪うこともない。何故なら彼はアッラーが彼を見ておられること、また彼の行為についてかれが問いただすであろうことを知っているからである。

地上において、彼が羽目を外すことはない。何故なら彼は、地上における良きものは全てアッラーの有であり、またかれが何のためにそれらを創造したのかを知っているからである。彼はそれらの良きものを必要に応じて取りつつ、彼のためにそれらを用意したもう主に感謝を捧げる。

本書において、私が語り示していることは、イスラームにおける偉大なる柱の、ごく重要な部分のみである。誰であれこの基本を信じ、これに沿って行動する者はムスリムとなる。もしそうでなければ、既に説明した通りであるが、イスラームとは宗教でありかつ世俗的でもある。崇拝であると同時に、それは生活の様式でもある。これは包括的かつ完全なる神命であり、その中には個人と社会が、宗教や政治、経済、社会、また安定した生活といったあらゆる側面における指針が含まれている。人はその中に、平和や戦争、また必須となる義務を管理し、人間、鳥、動物、そして人間を取り巻く環境の尊厳を保つための原則や基礎、規律を見出すことだろう。またこれは人間の真実、生と死、死後の生、そして死後の復活についても解き明かすものである。またイスラームには、自分を取り囲む人々との関り方について最も優れた方法を見出せることだろう。アッラーがこう言われた通りである、

「人びとに善い言葉で話し(なさい)」 (雌牛章 2:83)

またかれはこうも言われる、

「怒りを押えて人びとを寛容する者」 (イムラーン家章 3:134)

またかれはこうも言われる、

人びとを憎悪するあまり、あなたがたは(仲間にも敵にも)正義に反してはならない。正義を行いなさい。それは最も篤信に近いのである。 (食卓章 5:8)

ここまで、宗教における段階と各段階に関する基本を論じた。次章においては、イスラームの美点について要約するのが適切であろう。

 イスラームの美

イスラームの美しさは筆によって書き尽くせるものではなく、この宗教の美しさを説明するのはどのような表現をもってしても不可能である。何故ならこれはアッラーの宗教だからである。肉眼ではアッラーを捉えられないように、人間には真理におけるかれの知識を知ることは不可能である。それ故に、筆ではかれの法を説明することが出来ない。イブン・アル=カイイムは言う、「高邁なるこの宗教のまばゆい知恵について、人のために下されたこの純粋なる信仰と法について熟考すれば、いかなる表現をもってしても完璧に説明することは不可能であり、いかなる賢者の知恵をもってしても近づくことは出来ない − たとえ全ての賢者のうち、誰よりも賢く、完成された賢者であったとしても、またその美点と長所を誰もが認め、尊敬すべき完全な知性をもってしても、世界は未だ法について知らず、たとえアッラーの使徒たちが確証をもたらしこれを支持することが無かったとしても、これがアッラーからのものであるとするには十分な証拠と証明たりえるだろう。この宗教のあらゆる側面には、完全なる知識、完全なる知恵、限りない慈悲、正義と寛容、あらゆる隠されたものと顕されたものに関する完全なる包括と、始まりと終わりに関する知識が示されている。またこれは、アッラーがそのしもべたちに授けた最も偉大なるご好意を示すものである。彼らをこの宗教へ導き、信徒となされ、彼らのためにこれを選びたもうことよりも、更に偉大なるご好意をかれが授けたもうことは無かったという事実こそがその確証である。それ故に、かれはしもべたちに対し、彼らを導くのはかれであるという事実を思い出させたもう。かれは言われる、

本当にアッラーは、信者たちに対して豊かに恵みを授けられ、かれらの中から、一人の使徒をあげて、啓示をかれらに読誦させ、かれらを清め、また啓典と英知を教えられた。これまでかれらは明らかに迷誤の中にいたのである。 (イムラーン家章 3:164)

かれご自身についてしもべたちに知らせ、大いなるご好意を授けて彼らを信じる者とし、感謝するよう命じて、かれはまたこうも言われる、

今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、・・・(食卓章 5:3)(注: Miftaahu daaris Sa‘aadah  V. 1, p. 374-375参照)

この宗教についてアッラーに感謝の意を示すためにも、以下にその美点を記す:

1. それはアッラーが御自ら選び、かれの使徒たちを通して下され、かれのしもべたちにかれを崇拝するよう促すアッラーの宗教である。かれの宗教は、人間の法規や人工の宗教と同列ではない。絶対的に完全なる価値を保持するのはアッラーであり、それ故にかれの宗教は、人類の、現世および永遠の生をより良いものにするための規定をもたらすという点において絶対的に完全である。そこには創造主の権利と、かれの方へと向かうべきかれのしもべたちの義務が含まれている。またしもべの、その他に対する義務や、各自の権利についても含まれる。

2. それは包括的である。この宗教における最も優れた美点のひとつが、全てを含むその包括性にある。アッラーは言われる、

啓典の中には一事でも、われが疎かにしたものはない。 (家畜章 6:38)

この宗教には、かれの御名、属性、そして権利といった創造主に関る全てが含まれている。そしてそれらは全て、法や義務、行儀と関係性といった、被創造物に関わることである。またこの宗教には過去やその後の時代の物語や、天使の物語、預言者たちと 使徒たちの物語も含まれている。天と地について、軌道と惑星について、海や木々、世界についても語られる。創造の目的と意図について、またその終末について言及する。楽園と、信仰者たちの最終的な住処について、また火獄と、不信仰者たちの最終的な住処について語る。

3. それは創造主と被創造物の間に絆を生じさせる。あらゆる擬宗教と信条は人間をもう一人の人間すなわち死、弱さ、欠陥、病から逃れ得ぬ者に繋ぐ。そのいくつかは人間を、数百年も前に死を迎えて既に骨と塵になった者にさえ繋ぎ止めようとする。然るにイスラームは、人間をその創造主に直接繋ぐという特質を持っている。説教師も伝道師も、また秘蹟も存在しない。こうした創造主と被創造物の直接的な繋がりとはどのようなものだろうか。絆は心とその主をつなぎ、それゆえに光と導き、高潔さがもたらされるのである。人は完成を求めるようになり、自らを取るに足らない者や低俗な者とは看做さず、更なる高みを目指すようになる。主との繋がりを持たない全ての心は、動物にも劣る過誤にある。

それは創造主と被創造物の間で交わされるコミュニケーションである。彼はその創造主が何を求めているかを知っている。彼は知識をもってかれを崇拝し、かれがお喜びになることを知り、それを求め、またかれが嫌うことを自らに禁じる。それは全能の創造主と、弱く貧しい生きものとの間で交わされるコミュニケーションであり、それゆえに彼は救済、援助と成功をかれに請う。また悪しき策謀者と悪行、悪魔からの加護をかれに求める。

4. それは現世と来世の益を差し出す。イスラーム法は現世と来世における益を保護することをその基本とし、優れた道徳の完成に導くものである。来世の益について解き明かすものとして、イスラームという宗教は、ないがしろにされるものは何ひとつ無いと説明する。またその詳細として、知られずにいるものは何ひとつ無いとも説く。イスラームは来世の幸福を約束し、懲罰について警告する。

アッラーはこの宗教を現世における益として定め、宗教、生命、財産、子孫、尊厳と知識を保護するものとしたもう。

尊敬すべき振る舞いについては、イスラームは外面と内面における礼儀の質を帰ることを禁じている。外面においてイスラームは清潔と、あらゆる不浄と汚れからの浄めを命じている。イスラームは香水を用いることや、身なりを美しく整えることを推奨している。婚外交渉や姦淫、飲酒といった下品な振る舞いを禁じる。死んだ動物の肉、血、豚肉を食べることを禁じ、合法な良い食物を食べるよう命じている。また浪費や放縦も禁じられる。

内面における浄化として、イスラームは不品行を禁じて品行ある振る舞いを推奨している。嘘をつくこと、卑猥な言葉を使うこと、怒り、嫉妬、吝嗇、誰かを卑しむこと、現世の評判を欲すること、尊大、高慢、また偽善などは、禁じられた振る舞いの一部である。推奨される振る舞いとしては品行方正であること、あらゆる人と良い関係を築き、彼らに親切にすること、正義と公正、謙譲、誠実、雅量、寛大、アッラーへの信頼、誠実な崇拝の行為、アッラーへの畏怖、忍耐、また感謝を表わすことなどが挙げられる。(注:Al-Qurtubee著 “Al-T’laam bimaa fee deenin-nasaaraa minal fasad wal-awhaam” p.442-445参照)

5.  容易さ:容易さはこの宗教における独特な性質のひとつである。あらゆる儀式は容易であり、またあらゆる崇拝の行為も容易である。アッラーは言われる、

この教えは、あなたがたに苦業を押しつけない。 (巡礼者章 22:78)

イスラームにおける最初の容易さとは、誰であれムスリムになりたいと思う者が人間の仲介者を必要とすることも無ければ、過去の罪を告白する必要も無いという点である。彼に必要なのは自らを浄め「私はアッラーをおいて他に崇拝すべき神もなく、ムハンマドがアッラーの使徒であると証言する」と、証言を口にし、そしてこの証言の持つ意味を信じ、そこに含まれるものにおいて実践することのみである。

加えてイスラームにおける崇拝も、その容易さと緩やかさによって特色づけられるものである。 旅行中や病気の時には、自宅にいた時や健康だった時に行ったことへの報奨が、そのまま彼の信託として記録され続けるのである。不信仰者の人生が困難と労苦で満たされる間にも、ムスリムの人生は全て安楽と平安によって満たされる。またムスリムにとっては死も容易なものとなる。まるで一滴の水が船からこぼれるように、魂が体から外へと出てゆく。アッラーは言われる、

天使たちが、清い(状態)で死なせる者に、「あなたがたに平安あれ。あなたがたは自分の行った(善行の)結果、楽園に入れ。」と言われよう。 (蜜蜂章 16:32)

不信仰者たちについては厳しく無慈悲な天使たちが、死の床にある者の前にやってきて鞭で打つ。不信仰者についてアッラーは言われる、

これらの不義の徒が、末期の痛苦の中で、天使たちが手を差し出して、「あなたがたの魂を渡せ。あなたがたはアッラーに就いて、真実ではないことを言ったりその印にたいして傲慢な態度をとってきたりしたことに、恥ずべき懲罰を載くのだ。」 (家畜章 6:93)

かれはまたこうも言われる、

あなたはもし天使たちが不信心な者たちの(死にさいし)魂を取る時、その顔や背中を(如何に)打つかを見るならば(どうであろう)。(その時天使たちは言うであろう。)「火炙りの懲罰を味わえ。」 (戦利品章 8:50)

6. 正義: イスラームにおける禁令を発したもうはただアッラーのみである。黒人も白人も、男性も女性も、かれこそは全人類の創造者である。人間はかれの裁き、正義と慈悲の前に平等である。男性と女性のいずれにも、かれはふさわしい規律を定めたもう。女性の費用を負担するという理由で男性に与えられた優位性を取り上げて女性に与えればそれは男性に対する不正であり、こうしたイスラームの法の変更は不可能である。またイスラームは白人種に高い価値を認めたり、黒人種の価値を否定したりということもしない。アッラーの法の前には全員が平等であり、彼らの間にある違いはただ篤信のみである。

7. あらゆる良きものが命じられ、またあらゆる悪が禁じられる:イスラームという宗教は高貴なる特質を持ち、良きものであればあらゆることが命じられ、悪きものであればあらゆることが禁じられる。これは成人した正常なムスリムであり、命じられたことと禁じられたことの判断がつく者ならば男女を問わず義務として課されている。彼も彼女もその手において命じられたことと禁じられたことを区別し、それが出来なければ舌で、または心で区別する。これによりムスリム・コミュニティの参加者全員が、その管理者となるのである。

怠慢な者には善行を、過誤を犯す者には思いとどまるよう、あらゆる個人が命じまた禁じるようでなくてはならない。統治する者となるか、あるいは統治される者となるかである。各自がその能力とイスラームの規律に則し、この問題を管理するのである。

見ての通りこの問題は、あくまでも個人の能力の範囲に応じて必須とされるものである。現代政治における政党が、政治活動を監視する機会と公的機能への参加を野党にも付与している、と誇らしげに主張するのと比較してみるべきだろう。

以上はイスラームにおける美の一部分である。そこに含まれるあらゆる儀式と義務、広範囲に渡る知恵を解き明かすあらゆる命令と禁令、重要な命題や深い感銘、独特かつたぐいまれな完成について詳細を語りたくもあるが、しかしそれらに逐一言及することは止めておこう。この宗教における規定について熟考する者ならば誰であれ、それが確かにアッラーから下された一点の曇りも無き真理であること、また過誤からの導きであることを知るだろう。アッラーの御許に帰ることを欲してかれの法に従い、かれの預言者たちと使徒たちの道に従うならば、悔悟の扉がその眼前に開かれるだろう。あなたの主は最も赦す者であり最も慈悲深き者である。かれはあなたを赦そうと、そのために招いているのである。

(注:本章の更なる詳細についてはShaykh Abdur-Rahmaan As-Sa‘dee著 “Ad-Durratul mukhtasarah fee mahaasiniddeenil Islaamee”ならびに Shaykh Abdul Azeez As-Salmaan 著 “Mahaasinul Islaam”参照)

 悔悟

アッラーの預言者はこう語った、「全てのアーダムの子孫は罪を犯す。悔悟する者こそ、罪人の中で最も優れた者である。」(注:アフマドならびにアッ=ティルミズィー、イブン・マーッジャによる)

本来、人は弱きものである。目的を定め、決心することが苦手だ。それでいて罪と悪業の結末を担うことも出来ない。そこでアッラーは、慈悲により人が抱える困難を容易にし、人に対し、悔悟するよう定めたもう。

悔悟の本質は、その醜悪さ故に — アッラーを畏れるが故に — 、主の慈悲を求めて罪を捨て去ることにある。自らの行いを後悔し、二度と罪を犯さないと決心し、残された人生がどうあれ、全てを善行のために費やすことである。(注:Al-Mufradaat fee ghareebil Qur'aan, p. 76参照)知られる通り悔悟とは、純粋にしもべとその主の間における心の行為である。人にとり、それは厳しくも、また難しいことでもない。それはただ心によってのみ行われる。罪を捨て、二度と犯さないことである。心の幸福と平安は、アッラーが禁じたもう全てを避けることにある。(注:Ibn Al-Qayyim著 “Al-Fawaaid”参照)

悔悟するには、秘密を暴露したり、弱みを握って人を操ったりする赤の他人の手を借りる必要はない。それはただあなたと、あなたの主の間でのみ生じるコミュニケーションなのである。あなたがかれの赦しと導きを乞えば、かれは赦したもう。イスラームにおいては、罪が子々孫々に継承されることも無ければ、来たるべき人類の救世主も存在しない。イスラームとは、イスラーム改宗者のユダヤ系オーストリア人ムハンマド・アサドが述べた通りである。「人類が救済を必要としている、といった言及を私はクルアーンのどこにも見出すことが出来なかった。イスラームには、人間と運命の間に立ちはだかる原罪の概念は存在しない。何故なら「人間は、その努力したもの以外、何も得ることは出来ない。」 (星章 53:39)イスラームは、悔悟の扉を開き、罪からの救済を得るための犠牲を捧げたり、自らの命を捧げたりといったことを人間に対して要求しない」。(注:Muhammad Asad著 “Road to Islaam” p. 140参照)アッラーは言われる、

重荷を負う者は、他人の重荷を負うことは出来ない。(星章53:38)

悔悟には、大いなる益と影響がある。そのうちいくつかは以下の通りである:

1. アッラーの大いなる寛容と、罪を隠したもうその度量を知る。もしもかれが望めば、即座に罰し、人前で辱め、その後の彼が安心して人々と共に暮らせなくなるようにすることもできるだろう。だがアッラーは、彼の罪を隠すことによって彼の名誉を守り、 かれの容赦によって彼を包み、活力を与え、要を満たして糧を授けたもう。

2. 本当の自分自身を知らしめる。邪悪や、何であれ罪を生じさせるものに傾いていたこと、悪行や怠慢は禁じられた欲望のしるしであること、そしてそれらを浄め、導きを得るには、一瞬たりともアッラーから隠しおおせることはできないということを知らしめる。

3. アッラーが悔悟を定めたのは、人にとり幸福の最大の原因とは何かを探求させようとの思し召しからである。それはアッラーの援助を求めるための避難所であり、そこには様々な類いの嘆願が引き寄せられる。ある者は自らの無力とアッラーへの服従を示し、またある者はアッラーへの愛を示し、またある者はかれへの畏れと希望を示す。すると魂は、アッラーへの悔悟と避難無しには生じ得ぬ特別な道を渡って創造主に近づく。

4. それにより、アッラーは彼が犯した過去の罪を赦したもう。アッラーは言われる、

不信心の者に言ってやるがいい。「あなたがたが(信者に対する迫害を)止めるならば、過去のことは赦されよう。」(戦利品章8:38)

5. それにより、悪しき行いは良き行いに変わる、アッラーは言われる、

悔悟して信仰し、善行に励む者は別である。アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。(識別章25:70)

6. それにより、人は周囲の人々に対し、彼らに悪事を働かれたとしても、アッラーを愛し、彼らに対しては過ちや罪を犯しているのは自分であるかのようにふるまう。何故なら行為には、それにふさわしい返報が備わっているからである。そのため、もし彼が人々に対しこうした良き振る舞いをもって接するならば、アッラーもまた彼に対して同じように接する。また、彼がその仲間たちに対するのと同じように、アッラーは、彼の悪行や罪とは関わりなく彼に対して親切を示したもうだろう。(注:Muftaahu daaris-sa’aadah, Vol.1, p.358-370参照)

7. それにより、人は自らが欠点や短所に満ちていることを知る。すると人は、他人の過ちをあげつらうことを控え、他人の過ちについて思いめぐらせるよりも、自分自身を改めることの方に集中するようになる。

預言者の許へやって来て、「おお、アッラーの使徒よ!大きいものも小さいものも、私に残されたものは私が犯した罪ばかりだ」と言った男の伝承をもって本章の結びとする。

アッラーの使徒は言った、「あなたは『アッラーの他には崇拝に値する神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である』とは証言しなかったのか。」

彼は三回に渡って同じ質問をし、男はそのたびに「はい」と答えた。

すると彼は言った、「あなたの証言が(あなたが犯した罪の)全てを解消した。」(注:アブー・ヤアラーならびにアッ=タバラーニー、アル・マクドゥースィーによる)

別の伝承によれば、男が預言者の許へやって来て言った、「教えたまえ!もしもある男があらゆる罪を犯し、かつ何ものをも配せずアッラーのみを崇拝し、なお小さなあるいは大きな罪から離れずにいたならば、彼の悔悟は受け入れられるだろうか?」

預言者は男に尋ねた、「イスラームには入信したか。」

男は答えた、「私は、『アッラーの他には崇拝に値する神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である』と証言した。」

預言者は言った、「然り!善行をなして悪行を退けよ。そうすればアッラーが、あなたの悪行を善行に変えたたもう。」

男は言った、「私の悪行、私の罪を?!」

預言者は言った、「然り」。

男は言った、「アッラーフ・アクバル!(神は偉大なり!) 」

それから彼は立ち去り、その姿が見えなくなるまでそう言い続けた。(注:イブン・アビー・アーシムならびにアッ=タバラーニー、アル・バッザールによる)

イスラームは、人が犯しただろういかなる罪をも消し去る。

同様に、預言者が確信を以て伝えた通り、

誠実な悔悟は人が犯しただろういかなる罪をも消し去る。

イスラームから逸れた者の結末

本書によって明らかにした通り、イスラームはアッラーの宗教であり、全ての預言者たち、使徒たちによって説かれた真の宗教である。アッラーは、誰であれ信じる者には現世と来世の双方における偉大なる報奨を用意し、また誰であれ信じない者には厳しい苦痛をもって警告する。

アッラーは創造者であり、全宇宙の所有者かつ処分者である。あなた方人間は、単にかれの被創造物であるに過ぎない。かれはあなた方を創り、あなた方のために全宇宙を供させ、あなた方のためにかれの法を定め、かれに従うよう命じたもう。従って、もしあなた方が信仰し、かれの戒律に従い、かれがあなた方に禁じるもの全てを避けたなら、来世においては、かれがあなた方に約束した永遠の幸福を成就し、また現世においては、かれがあなた方に示すあらゆる恩恵、あらゆるご好意によって幸福を得ることだろう。あなた方は最も賢く、また魂において最も純粋な者たちのように、すなわち預言者たち、使徒たち、正しき人々や愛されし天使たちのようになるだろう。

だがもしあなた方が信仰せず、あなた方の主に背くなら、現世における人生も来世も失われ、現世においても来世においても、あなた方は自らをかれのお怒りと懲罰に晒すことになる。それからあなた方は、全ての非創造物のうち最も邪悪なもののようになる。最も知性を欠き、心において最も下等な者たちのように、すなわち悪魔、堕落した人々、擬神や違法者たちのようになるだろう。これは単なる警告に過ぎない。

不信仰者たちについての詳細は以下の通りである。

1. 恐れと不安:アッラーは、かれを信じ、かれの使徒たちに従う者たちに、現世と来世における完全なる庇護を約束したもう。かれは言われる、

信仰して、自分の信心に不義を混じえない者、これらの者は安全であり、(正しく)導かれる者である。」(家畜章 6:82)

保護を与えるのはアッラーであり、かれは被創造物を見守り、またそれら全てを所有する者である。もしかれが、しもべをその信仰ゆえに愛したもうなら、かれは庇護し、静けさと平安を与えたもう。だがもししもべがかれを信じないなら、かれは静けさと庇護とを取り上げたもう。あなた方は、ひたすら来世における自らの運命を恐れ、降りかかる災難と病気を恐れ、また現世における自らの将来を恐れる人々に出会ったことは無いだろうか。そうしたわけで、アッラーへの信頼と安堵の欠如ゆえに、生命と財産を保険市場が保証するのである。

2. 困難な人生:アッラーは人間を創り、宇宙に存在する全てを彼に供し、あらゆる被創造物に糧とその生涯を分け与えたもう。それゆえに、あなた方は鳥が巣から出て来て餌を探し、それを捉えるのを見る。木の枝から枝へと飛び、最も旋律的な調子で歌う。人間もまた、アッラーによってこのように糧と生涯とを分け与えられた非創造物のひとつなのである。従ってかれを信じ、かれの法の上にしっかりと立つ者には、アッラーは幸福と安心を授ける。たとえ生活するための最小限のものしか持たなかったとしても、主は彼の抱える問題を容易にしたもうことだろう。

だが自らの主を信じず、かれを崇拝せず慢心する者に対しては、たとえ彼が自由と快適さと、楽しむためのあらゆる手段を持っていたとしても、かれはその人生に困窮をもたらし、悲しみと悩みによって苦しめたもう。あなた方は、富やあらゆる享楽がその市民に保証されている国々における、自殺による犠牲者数の多さを見たことは無いだろうか。現世の享楽のために用意された、あらゆる種類の家具や絨毯を目にしたことは無いだろうか。こうした行き過ぎの原因は、心が信仰から離れ、あらゆる手段を用いて制約や困難、心配を忘れ去ろうとする愚かしい試みなのである。アッラーは、その御言葉において真実を告げる、

だが誰でも、わが訓戒に背を向ける者は、生活が窮屈になり、また審判の日には盲目で甦らされるであろう。」(ター・ハー章 20:124)

3. 彼は自らの魂と、彼を取り巻く世界との終わりなき戦いを生きることだろう。何故なら彼の魂は、イスラーム的一神教によって創られているからである。アッラーは言われる、

これがアッラーの創造である。(ルクマーン章31:11)

彼の体はその主に降伏し、かれが命じる通りに動く。だが信じない者は、彼自身の性質に反して譲らず、彼の主に抗って勝手気ままな人生を送る。彼の体が創造主に服従しているにも関らず、彼自身の自由意志がそれに反対するのである。

最も小さな虫から最も巨大な銀河に至るまで。全宇宙はアッラーの命ずるところに従って動いている。この意味において、彼はまさしく彼を取り巻く世界の全てと絶えず戦い続けるのである。アッラーは言われる、

それからまだ煙(のよう)であった天に転じられた。そして天と地に向かって、「両者は、好むと好まざるとに関わらず、われに来たれ。」と仰せられた。天地は(答えて)、「わたしたちは喜んで参上します。」と申し上げた。(フッスィラ章 41:11)

世界は、アッラーに従うことで世界と同意する者を愛する。また、これに反対する者を憎む。不信仰者は、世界に対して自ら反抗者となる。そうして自らの主と競うことで、自分自身の敵となるのである。これが天地と、あらゆる非創造物が彼を憎み、彼の不信と無神論を嫌う正当な理由である。アッラーは言われる、

またかれらは言う。「慈悲深き御方は子を設けられる。」確かにあなたがたは、酷いことを言うものである。天は裂けようとし、地は割れて切々になり、山々は崩れ落ちよう。それはかれらが、慈悲深き御方に対し、(ありもしない)子の名を(執り成すものとして)唱えたためである。子を設けられることは、慈悲深き御方にはありえない。天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、罷り出ない者は唯の1人もないのである。(マルヤム章 19:88-93)

フィルアウンとその配下についてかれは言われる、

かれらのために、天も地も泣かず、かれらに猶予も与えられなかった。(煙霧章 44:29)

4. 無知の人生を生きる:不信は無知によるものだが、むしろ最も大きな無知であると言えよう。何故なら不信仰者は彼の主について知らず、彼の主により最も素晴らしい方法で創られたこの宇宙を見、彼自身の中にアッラーの偉大なる意志を見ていながら、彼はこの宇宙の創造主も、自らの創造主も知らずにいるのである。これこそ、最も大いなる無知ではないだろうか。

5. 自分と、自分を取り巻く全てを損ねる人生を生きる:これは、彼自身をその創造の目的以外のために用いるがゆえである。彼は自らの主を崇拝せず、それ以外を崇拝する。不正は、然るべきものがそれに相応しくないところに置かれることから生じる。崇拝に値しないものに崇拝を捧げる行為よりも大きな不正が他にあるだろうか。多神を奉じることの害悪について、ルクマーンは彼の息子に語った、

「息子よ、アッラーに(外の神を)同等に配してはならない。それを配するのは、大変な不義である。」(ルクマーン章 31:13)

またこれは、彼の周囲の人々はその他の被創造物にとっても不正である。何故なら彼は、主こそは権利の正当な保持者であることを認めないからである。復活の日、自らが不正を及ぼした全ての人と動物が彼の前に立ち、彼に対する報復をアッラーに求めるだろう。

6. 自分を、アッラーのお怒りの下に晒す:

不信への罰として、彼はたちまち災難と苦悩に晒されることとなる。アッラーは言われる、

悪事を策謀する者は、アッラーがかれらを、大地に沈ませないか。あるいはかれらが予想しない方向から、懲罰が下されないであろう(と安心出来るだろうか)。またかれらがあちこち往き来している間に、回避の機会もなく御召し上げになることはないか。またはゆっくり消耗させて、かれらを召されることはないであろうか。本当にあなたがたの主は親切な方、慈悲深い方であられる。(蜜蜂章 16:45-47)

かれはまたこうも言われる、

だが不信者たちはかれらの(悪い)行いのために、アッラーの約束が実現するまで災厄がかれらの住まいとその付近に絶えることなく付きまとう。本当にアッラーは決して約束を違えられない。(雷電章 13:31)

他の句においてもかれは言われる、

また町や村の人びとは、昼間かれらが戯れている間に訪れるわが激怒に対して、安心出来るのであろうか。(高壁章 7:98)

これが、アッラーを想起することから背を向ける者全ての運命である。アッラーは、不信仰であった過去の人々に対する懲罰について私たちにこう告げる、

それでわれは、かれらをそれぞれの罪に照らして懲しめた。ある者には砂石の暴風を送り、またある者には一声(懲罰)で襲いかかり、またある者は大地に沈め、またある者を溺れさせた。これはアッラーがかれらを損なったのではない。かれらが、自分を損なったのである。(蜘蛛章 29:40)

7. 失敗と損失が彼の取り分となる。彼の過誤ゆえに、彼は心と魂が喜ぶ最も偉大なるもの、すなわちアッラーを知り、かれを想起し、かれと共にある静謐の味わいを失うのである。彼はまた世界をも失う。何故なら、そこにおいて彼は悲惨と混乱の人生を送り、現世の富を蓄財することによって自らの魂を失うからである。彼は創造の目的に従わず、それとは異なる目的の方に従う。それゆえ彼は現世における幸福を成就せず、悲惨な人生を送り、悲惨な死を遂げることによって、不幸な人々の上に更なる悲惨を広げるのである。アッラーは言われる、

また目方の軽い者は、わが印を軽んじたため自分を損う者である。(高壁章 7:9)

彼はまた家族をも失う。何故なら、彼がアッラーを信仰せずに家族と共に暮らせば、家族もまた彼と同様に悲惨と困難に見舞われ、彼らの運命も火獄となるからである。アッラーは言われる、

「本当に失敗者とは、審判の日に、自らの魂とその家族を失う者である。本当にそれは明らかな失敗である。」(集団章 39:15、相談章 42:45)

復活の日、彼らは火獄へと連れていかれる。そして邪悪が彼らの休息所となる。アッラーは言われる、

不義を行っていた者たち、その妻たち、またかれらがアッラーを差し置いて拝していたものたちを集めなさい。かれらを火獄への道に連れて行け。(整列者章 37:22-23)

8. 彼は自らの主に対する不信仰者となり、かれの祝福を否定する者として生きるだろう。彼を無から創造し、彼の上に恩寵を注いだのはアッラーである。にも関らず、どうしてかれ以外の何ものかを崇拝し、親しみ、感謝することなど出来るだろうか?これよりも大きく、またこれよりも悪い忘恩があるだろうか?

9. 彼には、真に意図的な人生が与えられることはないだろう。何故ならそうした人生は、自らの主を信じ、自らの目的地を知り、運命を認め、復活を確信する者にこそふさわしいからである。彼はそれを有する者の権利を認める。彼は真理を隠さず、被創造物を害することもない。こうして、彼は幸福な人々の人生を送り、現世と来世における善良な生を成就する。アッラーは言われる、

誰でも善い行いをし(真の)信者ならば、男でも女でも、われは必ず幸せな生活を送らせるであろう。なおわれはかれらが行った最も優れたものによって報奨を与えるのである。(蜜蜂章 16:97)

そして来世において彼が受け取るだろう報奨については、

かれはあなたがたの様々な罪は赦して、川が(木々の)下を流れる楽園に入らせ、アドン(エデン)の楽園における美しい邸宅に住まわせる。それは至福の成就である。(戦列章 61:12)

だが自らの主と、目的地や運命を知らずにいる者たちは、誰であろうと現世においては動物のように生きることになる。彼の唯一の目的は、食べかつ飲み、そして眠ることばかりなのである。彼とその他の動物との間に、何の違いがあるだろうか?彼は動物よりも大きな過ちを犯している。アッラーは言われる、

われは地獄のために、ジンと人間の多くを創った。かれらは心を持つがそれで悟らず、目はあるがそれで見ず、また耳はあるがそれで聞かない。かれらは家畜のようである。いやそれよりも迷っている。かれらは(警告を)軽視する者である。(高壁章 7:179)

かれはまたこうも言われる、

それともかれらの多くは耳を傾け、または悟るとでも思っているのか。かれらは家畜のようなものに過ぎない。いや、それよりも道から迷っている。(識別章 25:44)

10. 彼は永遠に苦痛の中に留まることになる。不信仰者は、ひとつの苦痛から別の苦痛へと移りゆくばかりである。彼は現世から — あらゆる苦痛と苦悩を経たのちに — 来世へと立ち去ってゆく。来世では、彼は最初に死の天使たちに出会う。それから苦悩の天使たちがやって来て、彼にふさわしい罰を与える。アッラーは言われる、

あなた(ムハンマド)はもし天使たちが不信心な者たちの(死にさいし)魂を取る時、その顔や背中を(如何に)打つかを見るならば(どうであろう)。(その時天使たちは言うであろう。)「火炙りの懲罰を味わえ。」(戦利品章 8:50)

そして彼の魂が去り、墓に埋葬された後で、彼は大いなる苦痛を味わう。フィルアウンの民についてアッラーは言われる、

かれらは朝にタベに業火に晒され、それから時が到来するその日、「フィルアウンの一族を、最も厳しい懲罰に投げ込め。」(と仰せられよう)。(ガーフィル章 40:46)

復活の日、被創造物が起こされてその行いが暴かれるとき、不信仰者たちは、彼らのあらゆる行いが正確に列挙された書物をアッラーが保管しているのを見るだろう。これについてアッラーは言われる、

(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなたがたは見るであろう。かれらは言う。「ああ、情けない。この書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。」かれらはその行った(凡ての)ことが、かれらの前にあるのを見る。あなたの主は誰も不当に扱われない。(洞窟章 18:49)

ここで不信仰者たちは、自らが塵であったならと願う。アッラーは言われる、

その日、人は、自分の両方の手が前もって行ったもの(所業)を見るであろう。不信者は、「ああ、情けない、わたしが塵であったならば。」と言うであろう。(消息章 78:40)

その日を恐怖するがゆえに、人は地上のあらゆるものを所有したがり、そうすることでその日の苦悩から自らを解き放とうとする。

仮令悪を行う者が、地上の凡てのもの、なおそれに倍するものを所有し、審判の日における懲罰の苦難から、逃れる身代金にしようと思っても(無益である)。その時かれらが思い及ばなかったことが、アッラーからかれらに現わされよう。(集団章 39:47)

アッラーはまたこうも言われる、

罪ある者はその日、自分の罪を贖うために自分の子供たちを差し出そうと願うであろう。かれの妻や兄弟、かれを庇った近親、自分を救えるならば、地上の凡てのものを挙げて贖うことを請い願うであろう。(階段章 70:11-14)

その住処は、報奨でもなければ望んでいたものでもない。人はその行いにふさわしい返報を得るのである。行いが良ければ良い報奨を、行いが悪ければ、その返報は懲罰である。そして復活の日、不信仰者たちに下されるであろう最も悪い懲罰とは、悪業のもたらす苦痛を味わえるよう、アッラーがそこへ住まう者たちのために用意した様々な種類の火獄である。アッラーは言われる、

これは罪を犯した者が、嘘であると言いはった地獄である。かれらはその(業火)と、煮え立つ湯の間をさ迷う。(慈悲あまねく御方章55:43-44)

かれはまた、地獄の住人たちの衣裳についても告げられる、

それで(主を)拒否する者のために仕立てられるのは、炎の衣装であろう。かれらに頭上から熱湯が注がれて、腹の中の物も皮膚も、それで溶かされるであろう。その上、かれらには鉄の鞭が加えられる。(巡礼者章22:19-21)

 終わりに

おお、人間よ!あなた方はかつて存在しなかった。アッラーは言われる、

人は思わないのか。われは以前何も無いところから、かれ(人間)を創ったのである。(マルヤム章 19:67)

それからかれは、男女から放たれたものの混成物によってあなた方を造り、またあなた方が聞こえ、見えるようにしたもう。アッラーは言われる、

人間には、なにものとも呼べない、長い時期があったではないか。本当にわれはかれを試みるため混合した一滴の精液から人間を創った。それでわれは聴覚と視覚をかれに授けた。(人間章 76:1-2)

それからあなた方は、徐々に弱い状態から強い状態へと移り変わり、そして再び、強い状態から弱い状態へと帰りゆくことだろう。アッラーは言われる、

アッラーは、あなたがたを弱い者に創られ、それから弱い者を後で、強壮にされ、強壮な者を弱い白髪になされる。かれは御自分の望みのままに創られる。かれは全知にして全能であられる。(ビザンチン章 30:54)

そして最後に死を迎える。このような段階を経て、あなた方は弱さから弱さへと移り変わってゆくのである。あなた方は悪に対して自ら背を向けることもできず、アッラーがあなた方に与えたその力と糧を用いること無しには、自らを益することもできないのである。本来、あなた方はか弱く貧しき者なのだ。あなた方が生きてゆく上で多くを必要とするが、それらはあなた方の所有では無く、時にそれはあなた方の手にあり、また時にそれはあなた方の手から奪い去られてゆく。また多くはあなた方にとって有用であり、あなた方はそれらを持っていたいと考えるだろう。そしてそれらは、ある時には得られたとしても、別の時にも得られるというわけではない。あなた方を害するものも多い。希望を失わせ、努力を無駄にし、避けたいと願わずにはおれない苦難と災厄をもたらす。時には、それらを避けられることもあるだろう。また時には、避けられないこともあるだろう。このように考えれば、あなた方は無力を感じ、また自分がアッラーを必要としていることを感じるのではないだろうか?アッラーは言われる、

人びとよ、あなたがたはアッラーに求める以外術のない者である。アッラーこそは、富裕にして讃美すべき方である。(創造者章35:15)

あなた方はウイルスにさらされている。肉眼では見ることも出来ない微弱さでありながら、防ぎようのない苦痛を伴う病気をあなた方にもたらす。それから、あなた方は治療を求めて自分と同じくか弱い人間の許へ行く。時として薬が役に立つ。だが時として、医者にはあなたを治療できないこともある。そうなれば、あなたも医者も混乱に陥る。

おお、人間よ!何とか弱い生き物であろうか!何かを蠅に盗まれたところで、あなた方には取り返すことも出来ないのだ。アッラーが何ごとかを語るとき、真実が語られるのである、

人びとよ、一つの比喩を説くから、それを謹んで聞きなさい。本当にあなたがたがアッラーの外に祈るものは、仮令かれらが束になっても、一匹の蝿(さえ)も創れない。また蝿がかれらから何か奪い去っても、それを取り戻すことも出来ない。祈る者も、祈られる者も、全く力がないのである。(巡礼者章 22:73)

蠅がかすめ取ったものを取り戻せないあなた方が、一体何を支配するというのか?あなた方の前髪はアッラーの御手にあり、あなた方の魂もまた同様である。私たちの心臓はかれの二本の指の間にある。かれはお望みのままに指をひねりたもう。あなた方の生死も、幸福も不幸も、全ては主の御手の中にある。

あなた方の成し遂げたことも、その言葉も、アッラーの許可と意志とによるものである。かれの許し無しにはあなた方は動かず、かれの意志によること無しにあなた方はいかなる行いも為し得ない。もしかれがあなた方を好きなようにさせておくなら、かれはあなた方を弱さと怠慢、罪と悪行に委ねる。またもしかれがあなた方を別の者の手に委ねるなら、あなた方に何の益も、害も、生死も、あるいは復活ももたらさない者の手に置き去りにするだろう。あなた方は、ほんの一瞬さえもアッラー無しにはいられない。むしろあなた方は、生きている限りあらゆる場面においてかれを必要とする。全ての場面においてかれを深く必要とするにも関らず、罪と不信によって、あなた方はかれの怒りを招くのである。それなのに、あなた方はかれを忘れてしまった。あなた方はかれの御許へと帰り、かれの御前に立たされるのである。(注:Ibn Al-Qayyim著 “Al-Fawaid” 参照)

おお、人々よ!あなた方がか弱く、その肩に罪の結末を負えないがゆえに、「アッラーは、あなたがた(の負担)を軽くするよう望まれる。(婦人章 4:28)」かれは使徒を遣わし、書物を啓示し、法を定め、あなた方の前に真正なる道を打ち立て、御しるしと確証、証明を確立し、また万物を以てかれの唯一性、主権、また崇拝に値するのはかれのみであることの御しるしとしたもう。だがこうした全てにも関らず、あなた方は真実を虚偽によって遮り、シャイターンをアッラーと居並ぶ友とし、虚偽によって口論する。「人間は、論争に明け暮れる。(洞窟章 18:54)」

あなた方は、アッラーのご好意によって動きまわり楽しむ。だがそれが、あなた方に自らの始まりと終わりを忘れさせてしまったのである!男女から放たれたものの混成物によって造られ、やがて墓へと帰り、復活し、最後の目的の場所が楽園もしくは連獄であることを、あなた方は思い出さないのだろうか?アッラーは言われる、

人間は考えないのか。われは一精滴からかれを創ったではないか。それなのに見よ、かれは公然と歯向っている。またかれは、われに準えるものを引合いに出して、自分の創造を忘れ、言う。「誰が、朽ち果てた骨を生き返らせましょうか。」言ってやるがいい。「最初に御創りになった方が、かれらを生き返らせる。かれは凡ての被造物を知り尽くしておられる。(ヤースィーン章 36:77-79)

かれはまたこうも言われる、

人間よ、何があなたを恵み深い主から惑わせ(背かせ)たのか。かれはあなたを創造し、形を与え、(均整のとれた体に)整え、かれの御心の儘に、形態をあなたに与えられた御方である。(裂ける章 82:6-8)

おお、人々よ!なぜあなた方は、主の御前に立つことの喜びを自らに禁ずるのか。かれを想起すれば、かれはあなた方を貧しさから豊かさへと引き上げたもうことだろう。あなた方の病を癒し、悲しみから解き放ち、罪を赦し、害を取り除き、過ちから救い、混乱したときや過誤に陥ったときには導きを与え、怯えているときには保護を与え、無知には知を授け、弱さには慈悲を授け、敵を追い払い、糧を授けたもうことだろう。(注:Miftaah daaris-sa’aadah 1, p.251参照)

おお、人々よ!アッラーが下された最も偉大なる祝福とは宗教であり、その後に続く祝福とは知性である。これによって、人は何が益であり、また何が害であるかを見分けることができる。これによって、人はアッラーの戒律と禁じるところを理解し、並ぶ者無きアッラーのみを崇拝するという偉大なる目的を知るのである。アッラーは言われる、

あなたがたの与えられるどんな恩恵もアッラーからである。なおまた災難に会う時は、あなたがたは只かれに御助けを懇願する。それなのにかれがあなたがたから災難を除かれると、見るがいい。あなたがたの中ある者は、主と並べて外の神々を崇め、・・・(蜜蜂章 16:53-54)

おお、人々よ!賢い者であれば高尚なる問題を好み、低俗なる問題を嫌うだろう。預言者たちや敬虔な人々が持つあらゆる公正さや寛大さに倣うことを好み、たとえ彼らの位階に届くことは出来ないとしても、彼らと共にありたいと切望するだろう。唯一の方法は、アッラーの導きに従うことである。かれは言われる、

言ってやるがいい。「あなたがたがもしアッラーを敬愛するならば、わたしに従え。そうすればアッラーもあなたがたを愛でられ、あなたがたの罪を赦される。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(イムラーン家章 3:31)

もしもこれを成し得た者ならば、アッラーは預言者たち、使徒たち、殉教者たち、また正しき人々の位階を授けたもうだろう。アッラーは言われる、

アッラーと使徒に従う者は、アッラーが恩恵を施された預言者たち、誠実な者たち、殉教者たちと正義の人々の仲間となる。これらは何と立派な仲間であることよ。(婦人章 4:69)

おお、人々よ! 私はあなた方に、自らを連れて隠棲し、確証と証拠が示す真理について深く熟考するよう助言する。そしてそれが真理であると理解したならば、急いでその後を追うべきであり、決して慣習と伝統の奴隷になるべきではない。友人たちや仲間たち、また祖先よりも、あなた方にとって大切なのは自らの魂であるということを知っておくべきである。これを以てアッラーは不信の者たちに対する忠告とし、彼らに呼びかける。かれは言われる、

言ってやるがいい。「わたしは忠告する。あなたがたはアッラーの御前に、2人ずつまたは1人ずつ立ってよく考えなさい。あなたがたの同僚は、気違いではない。かれは厳しい懲罰の(下る)以前に、あなたがたに警告するに過ぎない。」(サバア章 34:46)

おお、人々よ!あなた方がイスラームを受け入れたとき、あなた方は何ひとつ失うことがない。アッラーは言われる、

かれらが仮令アッラーと最後の日を信じて、アッラーがかれらに与えたものから施しても、かれらにとり何の負担になろうか。アッラーはかれらをよく知っておられる。(婦人章 4:39)

イブン・カスィールはこう語った。「何が彼らを傷つけ得るだろうか?彼らはアッラーを信じ、誉め讃えるべき道を歩み、アッラーを信じ、善を行い、かれが授けたものの中から、かれが愛し、またお喜びになる方法で費やす者に約束された来世を望む。彼は善悪の意図を知る。彼らの中で誰が成功にふさわしいかを知っている。故にかれは彼に成功を与え、導きを示し、また彼にとっても喜ばしき善行を命じたもう。かれはまた導かれるにふさわしい者は誰かをご存知であり、また誰がかれの御慈悲から追放されるという不名誉にふさわしいかもご存知である。アッラーの扉から追放される者は誰であれ、現世においても来世においても失敗する落伍者である。」(注:Ibn Katheer 1.497参照)

あなた方にとりイスラームは、あなた方がしたいことや、アッラーがあなた方に対して合法とされたものを手にすることへの妨げになるものではない。むしろあなた方は、アッラーの御喜びのために為したあらゆる善行において報奨を得るだろう。たとえそれが、現世における生活のために為したことや、あなたの財産、あなたの所有、またはあなたの名声を高めるためであったとしてもである。非合法なものを避け、合法なもののみで行えば、合法なものを使用したというだけで報いられるのである。アッラーの使徒は語った、「あなた方のうち誰かが、自らの性的な欲求を満たすならば、それも慈善の行為である。」同胞たちは言った、「おお、 アッラーの使徒よ!我々のうち誰かが性欲を満たしたとしても、報奨が与えられるのでしょうか?」彼は答えた、「正直に言いなさい。それが不合法な手段で行われたなら彼は罪を得よう。同じく、それが合法な手段で行われたなら彼は報奨を得よう。」(注:ムスリムによる)

おお、人々よ!使徒たちは真実をもたらし、アッラーの意図を伝えた。確実な知識によって人生を送り、来世における成功を得るためにも、人はアッラーの法を知らねばならない。アッラーは言われる、

「人びとよ、使徒は確かに主からの真理をもってあなたがたの許に来た。だからあなたがたは信じなさい。それがあなたがたのために最も良い。例えあなたがたが信じなくても、本当に天と地の凡てのものは、アッラーの有である。アッラーは全知にして英明であられる。」(婦人章 4:170)

かれはこうも言われる、

「言ってやるがいい。「人びとよ、主から、あなたがたに真理が齎されたのである。導かれる者は、只自分を益するために導かれ、迷う者は、只自分を害するために迷う。わたしは、あなたがたの後見人ではない。」(ユーヌス章 10:108)

おお、人々よ!あなた方がイスラームを受け入れたとしても、それはただあなた方自身を益するのみであり、またあなた方が信じなくとも、それはただあなた方自身を害するのみである。アッラーは、かれのしもべを必要としない。罪人の罪がかれを害することもなければ、従う者の服従がかれを益することもない。かれの知らぬところで逆らう者はおらず、またかれの許し無しに従う者もいない。アッラーは、その預言者を通して告げたもう御言葉において言われる、

「わがしもべたちよ!われは自らに不正を禁じ、またあなたがたの間においてもそれを禁じた。ゆえに互いに不正を為してはならない。おお、わがしもべたちよ!われが導いた者を除けば、あなたがたはすべて道に迷っている。ゆえにわれに導きを求めよ。そうすれば、われはあなたがたを導くだろう。おお、わがしもべたちよ!われが糧を与えた者を除けば、あなたがたはすべて飢えている。ゆえにわれに糧を求めよ。そうすれば、われはあなたがたに糧を与えるだろう。おお、わがしもべたちよ!われが衣服を与えた者を除けば、あなたがたはすべて裸である。ゆえにわれに衣服を求めよ。そうすれば、われはあなたがたに衣服を与えるだろう。おお、わがしもべたちよ!昼も夜も、あなたがたは過ちを犯す。だがわれは全ての過ちを赦す。ゆえにわれに赦しを求めよ。そうすれば、われはあなたがたを赦すだろう。おお、わがしもべたちよ!あなたがたは決してわれを害することは出来ず、またあなたがたは決して自らを益することも出来ない。ゆえにわれに益のみを求めよ。おお、わがしもべたちよ!もしもあなたが、あなたがたのうち最初の者よりも最後の者よりも、またすべてのジンとすべての人間よりも、最も敬虔な者よりも敬虔であったとしても、われの王国には何ひとつ増えるものはない。おお、わがしもべたちよ!もしもあなたが、あなたがたのうち最初の者よりも最後の者よりも、またすべてのジンとすべての人間よりも、最も罪深い者よりも罪深くあったとしても、われの王国には何ひとつ減るものはない。おお、わがしもべたちよ!もしもあなたがたのうち最初の者と最後の者が同じ場所に立ち、われに求め、それでわれが一人ひとりの望みをすべて叶えたとしても、海に落とした針により減らされた水ほどにも、われの王国からは何ひとつ減るものはない。おお、わがしもべたちよ!われが数えるのはただあなたがたの行為のみであり、それに応じてわれはあなたがたに報いる。ゆえに良い報いを得た者は、ただアッラーに感謝せよ。だが何ひとつ得ない者は、ただ自らを非難せよ。」(ムスリムによる)

全ての称賛は万有の主アッラーに属する。いと高き預言者たちと使徒たちに平安と祝福のあらんことを — 私たちの預言者ムハンマド、また彼の一族と同胞たちと共に。

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